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風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

人生で初めての入院生活。自分、家族、仕事、人生とは⁉入院生活で感じた事や闘病記録、家族との過ごし方、趣味や特技の事を綴っていきます。

抗がん剤治療第三クール終了。『退院。そして我が家へ。』

造影剤CTのアレルギー反応に始まり、CVカテーテルの激痛。抗がん剤の副作用。オシッコとの闘い。骨痛との闘い。味覚異常のストレス。

をへた。これらをへた。経て来た。もう、へたへた(汗) 

 

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 ※ブログ内の薬品名、医学用語はあくまでも私が医師から聞いた話や自身で調べた結果による内容です。私は、医学を学んだわけでもありませんので、あくまでも実体験に基づいて書いております。もし、治療中の方や相談などはご自身の医師にお願いします。その点にご留意していただきますようお願い申し上げます。

 

そして、緊張の採血の朝を迎える。

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この朝の空

 

水曜日の朝、私は落ち着かない様子で採血されるのを待った。

この採血で白血球の中の好中球が600/µL 越えていれば退院の目安となる。

看護師が私の左腕に針を刺し血を抜いていく。この血は私にとって希望の光となるかそれとも悲しみの引き金となるのか。毎回、この血液検査の度に思ってしまう。

 

午前10時30分頃

 

担当医が私の血液検査の結果を携えて病室を訪れる。緊張の審判が下されることになる。

 

白血球が6200/μⅬ(マイクロリットル)好中球が74%

crp(炎症の値)が140/dⅬ 基準値0.14dL

γーGT(肝機能の値)146/L   基準値13~64/L

 

crpもγーGTも基準値を大きく越えていた。でも、入院当初に比べれば、大幅に下がって入る。でも、私の体は健康な体ではない。健康な時は血液検査で異常な数値が示されることなんて一度もなかったのに。

注目の好中球は白血球6200に対しての74%という事で4588という事で退院が出来る基準の600を越えているためにこの時退院が決まった。

 

医師が部屋を出ていくと私は大きなため息をついた。週三回のこの採血の結果で血液内科病棟内の患者の処遇が決まる。退院出来るもの、出来ないもの。治療方針が変更になるもの。治療を断念せざるを得ないもの。全てがこの血液検査の結果次第なのだ。

 

血液の病気というものがつくづく嫌になる。

 

この4か月間で私の体は健康な体ではなくなった。体重も筋力も減り、体には検査や治療の為に傷が増えて、髪の毛もなくなり、爪は固くなり、肌の色も浅黒くなった。

 

全てが『悪性リンパ腫』のせいだ。

 

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首には3か所のCVカテーテルの傷跡。

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首のつけ根の左右、左の脇下には生体検査の為のリンパ節切除の傷跡。

胸の中心には心膜液除去のカテーテルの傷跡。

 

そして、やせ細った腕や足。無くなってしまった筋力。この時もまだまだ歩行にはふらつきが伴い階段の昇り降りが出来るような状態ではなかった。あんなにキツイ思いをしてつけた体力も筋肉もなくなってしまった。この先、私の体はどうなっていってしまうのだろう。

 

 

医師が病室を出て行って退院の手続きに入る。たった、5日程度の退院なのに毎回、入院、退院の手続きをしなければならない。

 

私が毎回行う退院の手続きは、病室の片づけ、荷物の運びだし、入院費の清算、退院中の内服薬の受け取りなどである。

 

それと首についてるCVカテーテルの除去だ。

以前、『某24時間テレビのスペシャルドラマ 今日の日はさようなら』の中で主演の大野智さんがこのカテーテルを抜くシーンがある。見た方はご存知かもしれないが実際はあんなに長くはない。まあ、セリフの尺の問題もあるから、ああなるのだろうけど。

ここでドラマの内容にはあえて触れません。

 

入院手続きが済み病室で待っていると妻が迎えに来てくれた。

会ったのはほんの2,3日前なのにずっと会えなかったような気がする。

 

この頃からか私の病室に父や姉が来ることは無くなっていた。当初は来ていたが私が断っていたこともあり、ここ何か月はほとんど来なかった。

気持ちも分かる。父は胃が痛くなると言い。姉は夜眠れなくなるそうな。

申し訳なさでいっぱいになる。少しでも早く回復して孝行せねばと、この話を聞くたびに思い願う。

 

家に戻ると庭の梅の花が私を迎えてくれた。

春は私の知らないところでもうそこまで来ていました。

この日は何もできずみんなで食事をしてのんびりと過ごしました。久しぶりの我が家、久しぶりの家族との晩ごはん。やっぱり美味しい。やっぱり楽しい。

 

この頃のTwtterでつぶやいていた退院した時の目標のひとつ猫を愛でるも達成できました。

 

雄猫とも。

 

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 雌猫とも。

 

ただいま~。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。

 

 

 

『大事なもの。残せるもの。』

『悪性リンパ腫』という病気を告知されて一瞬で暗闇につき落とされた。その暗闇の中で必死にもがきながらも自分の足元を照らしながら一歩一歩、歩き出した私。

 

何が出来るかなこんな私に。

 

 

7か月前に死の淵をさまよっている時、そこから立ち上がろう、そこから這い上がろうと思った大きな理由は『家族』の存在だった。こんな私について来てくれて一緒に闘ってくれている妻。まだまだ幼いのに闘う事を余儀なくされた子供。

 

この二人の家族の存在が私を夫として父として生きながらえさせてくれた。

 

この二人がいなければ死んでいた。この二人がいなければ楽になりたかった。でも、私は夫であり父だった。今までもこれからも。

 

この二人の為に何が出来るのだろう。そう考えた。幾日も幾日も。答えは出た。出た答えは今まで通り。

 

夫として父として。生きる。

 

次に何が大事か考えた。何が残せるのか考えた。

 

出た考えは一緒の答えだった。

 

時間。

 

そう時間だった。大事なものも時間で。残せるものも時間だった。

 

家族と過ごす時間。お風呂の時間。ご飯の時間。寝る時間。笑う時間。泣く時間。怒る時間。寄り添う時間。

 

妻と結婚して10年。家族の為と頑張った仕事の時間。その仕事で心を痛めて過ごした時間。妻と子供の顔を見れずに過ごした2年間。私はこの2年間を無駄にした。

人はそうじゃないというかもしれない。でも、私は無駄にしたと思っている。妻との時間。子供との時間。一緒に過ごす時間。大切な時間を一緒に過ごせなかった。

 

2016年12月21日水曜日

私は『非ホジキンサンびまん性大細胞型B細胞性リンパ腫』と診断された。

 

あの2年間の無駄にした時間は更に私を苦しめた。申し訳なかった。悔しかった。歯痒かった。

 

妻に子供に。そして、自分に。

 

でも、告知からの7か月。私たち家族は一緒に過ごす時間は減ってしまったけれど。いつも一緒に居る。笑顔も増えた。会話も増えた。一緒にいる時は喧嘩も増えたのかもしれない。

 

妻が愛おしい。子供が愛おしい。

 

この二人と一緒に過ごしたい。だから、闘える。だから、頑張れる。

 

戸籍上で夫の欄に名前があるから夫ではない。離婚問題の時に学んだ。

 

戸籍上で父の欄に名前があるから父親ではない。離婚問題の時に学んだ。

 

私が夫であり父であることは法律上でも認められている。

 

でも、妻にとっての夫にありたい。

 

子供にとっての父でありたい。

 

大事なものはお金でもない。おもちゃでも習い事の月謝でも発表会の拍手でもなかった。

 

一緒に過ごした時間だった。

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一緒にオセロしたり、一緒に練習した逆上がり。一緒に練習した自転車。一緒に作ったうどん。一緒に解いた宿題。

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私が退院して子供と一緒に寝る時に子供が私に子守唄を歌ってくれた。私が子供に歌っていた自作の子守唄だった。

 

もう何年も歌ってなかったから子供が覚えてるとも思わなかった。子供は私が目を開けると怒った。『それじゃあ、子守唄にならない』と。私は言った。『〇〇も中々寝なかったよ。』子供は嬉しそうに『その時パパはどうしたの?』って訊いて来た。

『歌ったよ。寝るまで。』私が言うと子供は嬉しそうに笑った。

 

子供が目を閉じて『パパ、お話して』と言った。『何の話?』と私が訊いた。

『パパが作った話』と子供が言う。子供が3歳くらいになった時、私は一緒に寝ながら頭の中で考えた話を毎晩即興で子供に聞かせていた。

 

子供が食べれなかった人参が食べれるようにと考えた『人参お化けの話』

 

私が好きなチェリーパイのジャムを作るまでの冒険活劇『ママが作ったサクランボジャムの話』

 

毎日毎日違う話を即興で話した。でも、途中で子供は寝るので最後まで話せたのは、ほんの2,3回だった。一緒に布団に入った妻のイビキで途中で止めたことも何回もあった。その度に『ママの為のお話じゃないのにね』って子供と笑った。

 

この時の私は父として子供との時間に参加していた。そこに居ただけじゃなく参加していた。子供の保育参観、授業参観も一度も欠かしたことは無い。保育園の時、子供が描いた絵を何十人の中から毎年、当てれる親は少なかった。でも私は毎回当てれた。

 

子供の絵の先生は私だった。だから、絵を描く順番も形も私の絵にそっくりだった。

 

私は子供の時間に参加していた。でも、心の病気と闘った時間は参加してなかった。

 

妻と子供が出かける時に私が言われてた言葉『どうせパパは行かないから。』私はそこに居なかった。体という物理的なものは存在していたが存在感というものはそこには無かった。

 

無駄にしたな。あの時間。

 

あれから2年。

 

私が昼食後にパソコンで絵を描いていたら病室のカーテンの隙間から女性が顔を出してきた。私に微笑みながら手を振った。私はその女性の顔を見ながら綺麗な人だな、でも誰だ?と思った。なんでそう思ったかは分からない。

 

『こんにちは。』と女性が言う。妻の声だった。

 

『こんにちは。』私が慌てて言い返す。二人で病室を出て子供が待つ廊下のソファーへ歩いていく。なんだか楽しい。そんな気分だった。

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ソファに腰を下ろすと二人が矢継ぎ早に話をしてくる。我が先とばかりに。3人掛けの大きなソファ。二人の距離が近すぎて『暑い』と私が言う。

 

3人がハッとして笑った。話したい気持ち、伝えたい気持ちが大きすぎて距離も近くなっていた。

 

私が居ない7か月。私の家族は大事な時間しっかり過ごして、しっかり参加しているようだった。安心したよ夫として父として。ありがとう。ありがとう。

 

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。感謝いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

抗がん剤治療第3クール⑦

『悪性リンパ腫』の抗がん剤治療3クール目。回復期。

感染症に怯えつつ、いつもの副作用とフィルグラスチムによる骨痛と闘う日々。ここまでやっと来た。もうすぐ帰れる。家に帰れる。

その日がすぐそこまで・・・。

 

 

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何を食べてもなんにも味がしない。

 

 『悪性リンパ腫』の治療の為のR-EPOCH療法3クール目もいよいよ最終段階。

ここまで来れば白血球達の回復を待って退院の許可が出るのを待つだけ。

抗がん剤投与終了から1週間。体はキツイ。主な副作用は、体のだるさ、手、足の指先の痺れ、胸の息苦しさ、体の節々の痛み、吐き気、頭痛、口内炎と目まい。どれも前回のR-EPOCH LV2の時の副作用よりも今回のLV3の方が遥かに副作用はキツイ。

 

それに加え、益々酷くなった味覚異常。

 

この味覚異常の為に、ここ4,5日位は何を食べても味がしない。

白飯は白い粘土と化し、魚料理はその臭みで食べれなくなり、汁物は水臭い透明の味のしない何かに変わってしまった。

 

無味無臭の水でさえ、ドロドロとした何かに変わってしまった。

 

私が住んでいる熊本市は阿蘇の山々の湧水でほとんどの水道水をまかなっており、水道の蛇口をひねれば、その水が美味しく飲める。親元を離れ、一番の熊本との違いはこれだった。どこに行っても大抵の街ではカルキ臭く、ビルの屋上にある貯水槽にある水は怖くて飲めなかった。その度に熊本は水の国。とはよく言ったものだと思っていた。

 

その私の熊本人としての源とも言える『水』がまずい。

 

このショックは大きかった。

 

医師から副作用の説明を受ける時に味覚異常の説明は確かにあった。

 

でも、、、。

 

ここまでとは思わなかった。

 

このショックは大きかった。この一週間、ほとんど病院食を食べることが出来なかった。私が入院している病院の病院食は、他の患者に言わせると美味しいらしい。

入院直後の心臓に心膜液が溜まり、不整脈が頻繁に出ていた時は循環器科に入院していた。まだ、『悪性リンパ腫』と診断される前の話。ずっと、昔の様な気がするけれど、、、。

 

循環器科に入院してから2週間くらいは寝たきりで、酸素の吸引もしていたし40℃を越える高熱がずっと続いていたので殆ど食事がとれなかった、心膜液除去の処置を終え息苦しさから解放され体力も少し回復すると食欲も出て来た。病院食も少しづつ食べれるようになり、病院食を食べながらの妻との会話でも『普通においしいね。』『これだったら、食べる心配はいらないかもね。』と話していた。

 

あれから4か月。

 

全く食べれなくなった。はっきり言って食事の時間が苦痛だった。自分食事でさえ、臭いや食感で食べれなくいるのに他の患者の食事の臭いで充満する病室の中にはとてもじゃないが居ることが出来なかった。ベッドの上で布団にくるまり、我慢していたこともあったけど、それも嫌になり度々、病室から逃げ出した。重たい体を引きずるように。

 

みるみる体重も落ちていきこの一週間で3kg痩せた。

 

お腹は空く。食べたいという気持ちもある。でも、病院食は食べれない。

その時に私がとった行動は、、、。

 

加工品に頼る。

 

だった。ここで言う加工品とは、『カップラーメン』や『スナック菓子』や『チョコレート』の事だ。若い時はカップラーメンとか普通に食べていたけれど、結婚して子供が出来てからはそれも無くなった。食べるとしても、2,3か月に1個食べるかどうかになった。その加工食品に頼った。食べても味はほとんどしない。美味しいと感じることもあんまり無い。でも、食べれる。ご飯を食べたという満足感はある。

 

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これでいいや。

 

と思った。食事の時間は病室を抜け出し、談話室でカップラーメンにお湯を注ぎ、それを食べて、まだ満足が出来なかったらスナック菓子を貪る。そして、他の患者の食事の臭いが消えた頃に病室に戻る。それが今回の退院まで続いたし、今もそのルーティーンは続けている。

 

この経験から病気の回復や栄養面を考えるよりも自分の満足感や達成感なんかを優先するような生活習慣になっていった。もちろん、明らかにこの『悪性リンパ腫』に多大な影響を与えるような生ものを食べたりはしないけれど。

 

以前のblogでも書いたことあるが私はこの『悪性リンパ腫』の原因はストレスだと思っている。だから、今の自分が出来る範囲で満足感や達成感で自分を満足させつつ少しづつ回復を待ったり日常を過ごすようになった。それでも料理を食べるのも作るのも好きな私にとってのこの病院での食事は大きなストレスになっている。

 

口内炎もひどく。痛い痛い。舌の先はピリピリと常に痛むし、舌には5mm位の裂孔が出来て口の中に入ってくるもの全てが沁み、その度に激痛が走った。

 

その時の舌の画像【閲覧注意】

 

https://goo.gl/Paqhd7

 

 以前のblogで紹介した同じ病気の青年が使っていて気になっていた、うがい薬を私も医師から処方してもらった。これを毎日使って口内炎が治って、舌の裂孔が塞がるのを待った。

その時に作ってもらったうがい薬は『ハチアズレ』といううがい薬と『キシロカイン』という麻酔薬を調合したものだった。

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これまでの入院生活に比べると副作用の対処や生活の習慣なんかも、この辺りから誰かに言われるためではなく自分で考え分からない事は質問をして、改善出来るところは改善して行くと徐々に私の体も心も回復に向かって行った。

 

自分の行動、考え、習慣をアジャスト(調整)する。

 

残念だけれど私の体は元気にスポーツを楽しみ、好きなものをお腹いっぱい食べ、好きなだけお酒を飲むという欲求に任せた生活が出来ない体になってしまった。

満足に食べたいものも食べれず、好きなスポーツに興じれば生命の危機にさえ曝されてしまう。好きな刺身やキムチ、生卵なども食べることは許されない。

家族でのキャンプや温泉でさえ感染症の危険性があるために禁止されている。

 

悲しいけれどあの頃の自分はもう居ない。

 

人は言う大丈夫だと。絶対に治るんだと。今は医学も進歩してるし薬も昔と違うからって。でもね。気持ちは嬉しいけれど。

 

もう、あの頃には戻れないよ。

 

あなたは強いね。あなたは若いから。お父さんなんだから頑張って。男でしょ。

色んな言葉で叱咤激励してくれる。

 

でもね。そんなこと言われなくても分かってるよ。

 

一番悔しいのは僕なんだ。

 

以前の自分には戻れない。これだけは間違いない。涙に暮れた日々も。命を絶とうと考えた事もある。

 

でも、前に進んでる。今は呼吸もそんなに苦しくないし、少なくとも食事もできるし、睡眠もとれる様になった。子供を笑わせることも出来るようになったし、歩けるようにもなった。

 

あの頃の自分には戻れない。

 

でもね。新しい自分が生まれたよ。生まれ変わったんじゃないよ。新しい自分の魅力に気付いたんだ。

 

パソコンで絵をかいたり。blog書いたり、小説書いたり、詩を書いたり。以前の自分ではやってない事をやり始めたこの頃。新しいものに興味を持ち苦労をして少しづつ少しづつ上達する。

 

やったじゃん。うまくなったじゃん。

 

自分を褒めてあげた。上手く描けたじゃん。決して自分が以前描いてた絵とは比べ物にならない出来の絵に感動して涙を流すことさえあった。器用でもないし、天才でもない。平凡、凡才な私。

 

でも出来た。

 

やってみたから出来るようになった。強い訳じゃない。弱いから強くなる必要があった。鉄と一緒。柔らかい鉄も叩いて叩いて硬くなる。叩いて叩いて強くなる。

熱い内に叩いて叩いて、不純物を取り除き、鉄としての純度を上げていく。

 

出来上がったものは日本刀にもなる。他にはない純度の高い最高の鉄。

 

私はそれになりたい。最初は弱くたっていい。脆くたっていい。醜いものでも構わない。でもいつかは、日本刀の様に硬く、美しく、誇り高いものになりたい。

 

今は生まれたばかり。先は長い。出来る事から始めよう。興味ある事から始めよう。

 

笑われたっていいじゃないか。時間かかったっていいじゃないか。急ぎはしない。

 

もうすぐ、妻の誕生日だ。10年前のお互いの誕生日にお互いに財布を送り合った。

私も妻も未だにその財布を使っている。私の小銭入れは穴が開き。彼女の財布もかなり傷んでいる。

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↑私が10年使っている財布

 

 

この夜、私はインターネットで買い物をした。10年前に妻に贈った財布と同じブランドの違う財布。喜んでくれると良いな。そう願って、ぽちっとな。

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最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『こんなんじゃなかった。』

人間生きていれば沢山出て来る

嬉しいこと。悲しいこと。怒ること。笑うこと。

その中でも悲しい事や怒る事の時『こんなんじゃなかった。』って思うことあると思います。今回はその『こんなんじゃなかった。』について書いていきます。

 

所詮、別人だもん。価値観、人生観は違って当たり前。

 

始めに言っておきますが私はきっとエゴイストでナルシストだと思います。

そんなの知っているって思う方や嘘ばっかりと思う方やそんなの興味ね~と思う方、それぞれ、いらっしゃると思います。

 

当然です。

 

だって人間だもの。←どっかで聞いたことあります。 

 

でも、自分が悲しいときや怒ってる時はこの当然と思うことが当然じゃなくなります。私もそうです。

 

例えば自分に目指すものや好きなものがあった時にそれを否定されると、どういう感情が湧いて来るでしょうか?

 

悲しい感情や怒るという感情ではないでしょうか?

 

そうなんです。

 

ほとんどの人間はこの自分を否定されると悲しみや怒りの感情が湧いてきます。

 

では、なんで湧いてくるのでしょう?!

 

ここでそれが人間。と言えば簡単なんですがそれではここで書く意味がないので私の体験談を交えて今回書いていきたいと思います。

 

自分が一生懸命に頑張ってやってる仕事を否定されたり、自分が大切にしているもを蔑ろにされたりしたら、本当に悲しくなりますし怒りたくなります。

 

それが自分に近い人だったり、自分にとって大事な人や尊敬する人だったら、、、。

それはそれは、悲しい気持ちになると思います。

 

私はこれで『鬱』になりました。

 

自分の事を理解してもらえない。自分はこんなに頑張っているのに。こんなに長年一緒に居たのになんで分かってもらえないの?という感情が私を孤独してしまい。

一人だけ蔑ろにされているような、そんな日々を過ごした結果だったと思います。

 

以前のblogでも書いたので何で私が『鬱』になったかという事簡単に説明しますと。

家族の為にと頑張っていた仕事が結果的に上手くいかず、それを家族にも言えず、一人で悶々と眠れない日々を過ごしていた。家族はその事に気付いていないので知らん顔。

私は何で気づいてくれないの?家族でしょ!と益々、孤独に『鬱』になる。

 

と言う感じです。

 

ここに書くと簡単ですし、言葉にすると簡単です。でも、期間にして1年半もの間、私は自分の部屋から出ることも出来ずに寝るに寝れず、昼夜問わず、吐いておりました。

 

あれから、3年経ちました。

 

今はどうかと言いますと、、、。

 

今の私には必要な時間だったんじゃないかなって思います。その孤独で『鬱』な時間の1年半が無ければこの『悪性リンパ腫』と告知された時も、今の様に前向きな気持ちにはなれなかったし、その前向きな気持ちから何か始めようと思ったtwitterやこのblogすら初めては、なかったでしょう。

 

では、『鬱』になった時に私はどうやってそれを克服したのでしょう?!

 

その時通っていた心療内科でも言われたのですが『「自分が何で!?」とか「何で私が?!」と思わずに今の自分の状態を受け入れてください。』という言葉。今ではなるほどそうだなと思いますが、その当時はこれが難しかった。私という人間はプライドが高く、そのせいで責任感も強い人間だと思います。これが邪魔して『自分は鬱患者』というものを受け入れる事が出来ませんでした。

 

ひょっとしたら、私の事ですから、この医者なんも分かってねえなぁ!

 

くらいの事思ったかもしれません。

でも、これでは『鬱』を克服すること出来ないんですよね。私の場合は、かなりの荒療治となるわけですが妻からの突然の『離婚宣告』によってこの『鬱』を受け入れざるを得なくなります。情けない話ですが仕方がない事だと思っています。

 

収入を得るため、頑張っている姿を見せるため、役職を上げてあの人は凄い!と思わせるため。これが家族の為と私の中で変換されて行った結果、足元から崩れ去り、振り返ったら家族も崩壊してた、、、(;´Д`)

 

この時に思いましたね~泣きながら・・・

 

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『こんなんじゃなかった!』

 

 

今思い出しても、悲しいし、寂しいし、情けないと思います。

でも、仕方ないんですよね。家族や仕事関係の人とは所詮他人なんですよ。だから、自分はこうだと思ってた事や信じていた事が違ったり、ズレいたとしても仕方のない事だと思います。よくある価値観のズレというものです。

 

この『価値観のズレ』によって私は傷つき、苦しんだと思います。しかもこのズレにすらき気付かずにいましたからね。

 

では、このズレに気付いたときに私がどうしたかと言いますと、ここからが本題です。

この本題まで1900文字打っています(汗)

 

私がこのズレに気付いたときにやったことは

 

『一回諦める。』

 

です。今の私があるのも、『鬱』『離婚』を克服、回避出来たのも『悪性リンパ腫』と闘えているのもこの『一回諦める。』をやったからだと思います。

 

なんでこの一回諦めるという考えにたどり着いたかと言いますと、

 

やってらんない。

 

という素直な気持ちからです。自分は正しい。間違ってない。家族の為に。とか、思って一層懸命にやっていたのに価値観のズレとか言う平凡なもので一気に何かが崩壊してしまうんですよ。その時の気持ちは、、、。

 

やってらんない。

 

ですよ。本当に。

でも、言い方を変えるというか逆の見方をすれば、その家族や周りの人間もひょっとしたら、やってらんないのかなって思ったんです。

 

だって、にんげ、、

 

所詮他人ですもん。私の便利なコピーロボットちゃんでは無くて、ひとつの個性を持った人間だし、その個性を羨ましく思ったり、魅かれたりした事もあるんですよ。

だから、妻とは結婚したんだと思ったんです。

 

だから、自分の考えや価値観を理解してくれないからといって、この人はダメだ!価値観がズレてるとは思わないで、この事については『一回諦めました。』話しても、議論しても無理だし、いい結果なんて生まれることなんてありません。きっと。

 

待ってるのは崩壊です。←この時の私の場合。

 

で、何をしたかというと今の自分が出来ることを一生懸命頑張りました。その為に、周りの意見にも耳を傾けましたし、積極的に意見を聞きにも行きました。

 

その結果。

 

『鬱』を克服することが出来て『離婚』も回避することが出来ました。

 

この過程までたどり着くには苦しみましたし、いっぱい泣いたし、いっぱい吐きました。でも、この

 

『一回諦めて、今の自分に出来ることをやろう!』

 

と思ってからはびっくりするくらい、身も心も軽くなりましたし、楽になりました。

一番自分でも驚いたのが姉に『あんた変わったね。私の話聞くようになったね。』って言われたことです。以前も聞いていたとは思っていたんですが、そうではなかったようです。

 

私は自分の価値観で物事を進め、それで結果が出ると自分が頑張ったからという感じに思っていたんだと思います。でも、こんな問題が起きた時にズレているのは自分じゃないのかと気付きました。そのズレというのは社会的なものや一般論のズレではなくて本当に単純な考え方のズレに気付きました。

 

以前の私なら相手の考え方を変えようとか思っていたでしょうが、もっと単純にもっとシンプルにやろうとした結果、その価値観のズレの相手とのズレの折衝をするよりも今するべきこと、出来ることをやった方が良いなと思いました。昔、20代の頃に自己啓発本のブームがあり、その中に『人を動かす』という本がありました。

 

その時の私はその表紙を見てこんな本買う人いるんだ。人動かす前に自分が動けよ。

と思ったことを覚えています。正しくそれで、人を変えることは出来ません。変えれたとしても大変な労力を要すると思いますし、他の弊害も出てくると思います。

だから、自分の考えをシンプルに自分が動いて自分が輝く。ってことが大事なのかなって気付きました。その結果、私の大事な存在は何か変わったね。って、寄ってきてくれました。ありがたいですね。

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私は今この大事な存在と一緒に『悪性リンパ腫』と闘えていることに感謝しています。

でも、一番ありがとうを言いたいのはあの時にこの考えに導いてくれた自分です。

 

ありがとう。

あの時の私。きつかったね。辛かったね。でも、頑張っていたね。

ありがとう。

あなたが頑張っていてくれたおかげで今もこうして生きてられるし、新たな闘いが出来ているよ。

ありがとう。

あの時のあなたに恥ずかしくないように、あの時流した涙が無駄にならないように頑張るよ。

ありがとうございます。

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

抗がん剤治療第3クール⑥

辛い辛いオシッコとの闘いが終わり、この日の朝、私の体に繋がっていたチューブやコードが外された。自由に動ける解放感。今の私にはこのぐらいの自由でも涙が出るくらいに嬉しかった。

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ひとつの闘いが終わると次の闘いが始まる。

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体から点滴用のチューブやコード類が外されてやっとの思いで手に入れた解放感。

まだまだ、私の体の中にはたっぷりと水分が残っているのでトイレに行く回数は多いけれど。

 

『悪性リンパ腫』の治療の化学療法というものは苦労、苦痛、苦悩の連続です。やっと、おとずれたこの少しばかりの平穏も抗がん剤投与直後から24時間後に始まる皮下注射で次の闘いが始まります。

 

皮下注射。

 

あのインフルエンザの予防接種の時に射つ針は細いけど痛いし射った後にダル~くなるあの注射です。

 

私が今射っているこの注射は『フィルグラスチム』と言うもので抗がん剤によって破壊された血液の細胞を再生しやすくする働きをしてくれます。

あぁ~可哀想。次の闘いは注射なのね。と思っている方、甘いです。

 

大甘です。

 

熊本県の名産であるスイカの『祭ばやし』位に甘いです。

確かにこの注射をうたれるときも痛いんですが、この注射が引き金になって起きるものの方がはるかに痛いです。激痛です。テーブルの角で足の小指だけををうったような激痛です。←半分冗談

 

その次なる闘いとは、、、。骨痛との闘いです。

 

『骨痛』

 

知ってますか?!

 

私はこの『悪性リンパ腫』になって初めて必要にかられて学び、この時初めて体験してさらに学びました。

 

骨痛は痛い。

 

その痛さと言ったら泣きそうなくらい。想像できないですよね、、、。

では、この骨痛が起きる原因を説明させていただきます。

その為には私が『悪性リンパ腫』治療の為に行っている化学療法というものを説明しなければいけません。

この化学療法ってはっきり言って聞いたことない言葉、薬品名のカーニバルです。

私も初めて聞いたときから3か月くらいは全く耳が脳が頭が受け付けない言葉ばかりでした。

 

なので今回はそれを噛み砕いて漫画にしました。

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今までのblogで書いてきた私が闘っている副作用ですが今回の『骨痛』は③の中に含まれる副作用です。この漫画②で抗がん剤をうたれ破壊された私の体の良性な血液の細胞たちは貧弱になり、数も激減してしまいました。このままでは、何らかのウイルスに晒されれば感染症や重篤な症状を引き起こす可能性が高まっています。

 

その対処として私の場合は『フィルグラスチム』という薬品を皮下注射することによってその数が減ってしまった良性の血液細胞(白血球、(好中球)、ヘモグロビン、赤血球、血小板など)の精製を手助けして生成をします。

 

その生成される過程で起こるのが『骨痛』です。

 

人間の血液は何処で作られるか。大人になるとその殆どが胸骨、脊椎、肋骨、骨盤などの限られた場所でしか作られなくなります。そこに急いで作れと作用する薬を注射するわけです。

 

血液が出来る。急いで作る。どんどん出来る。

 

それによって起きる痛み。『骨痛』この血液の生成の手助けする薬品は私が使っている『フィルグラスチム』の他にもジーラスタやグランという薬品があるようです。

(症状や副作用は違うかもしれないので医師にご相談ください。)

 

『フィルグラスチム』によって起きる副作用は

 

①ショック。②間質性肺炎。③急性呼吸窮迫症候群。④毛細血管漏出症候群(低血圧,低アルブミン血症,浮腫,肺水腫,胸水,腹水,血液濃縮など)。
[フィルグラスチム,ペグフィルグラスチムのみ]⑤(急性骨髄性白血病・骨髄異形成症候群の人で)芽球の増加促進。⑥脾腫・脾破裂。

 

ペグフィルグラスチム]
(1)おこることがある副作用……発疹,じん麻疹,紅斑,かゆみ,多形紅斑,皮膚剥脱(はくだつ)/背部痛,関節痛,筋肉痛,骨痛,四肢痛,筋骨格痛/下痢,便秘,腹痛,腹部不快感,悪心,嘔吐,口内炎/食欲減退/頭痛,味覚異常,めまい,異常感覚,感覚鈍麻,不眠症/口腔咽頭痛,せき,呼吸困難/発熱,倦怠感,潮紅,浮腫,疼痛,胸痛,注射部位反応(注射部位疼痛を含む)
(2)検査などでわかる副作用……ALT・AST上昇,肝機能異常,血中ビリルビン増加,γ-GTP増加/白血球増加,好中球増加,リンパ球減少,貧血,血小板減少,白血球減少,単球増加/電解質(カリウム,カルシウム,リン,クロール,ナトリウム)異常,高血糖/LDH上昇,AL-P上昇,CRP上昇,血中アルブミン減少,尿酸増加

【参照】リンク⇩

フィルグラスチムBS注シリンジとは?|特徴や効果・用量・副作用 - gooヘルスケア

 

薬品を使うという事はどこまで行っても副作用との闘いです。

私の場合は『骨痛』。主に腰の痛み。胸が苦しくなる。発熱。です。腰は立ち上がることが出来ずにその痛みがひくまではベッドの上でもぞもぞとしてます。

 

ドクンドクンと脈打つほど痛むのでロキソニンを処方してもらい毎回服用してます。

この他にも40度近い発熱が2,3日続きます。自分の脊椎が血液を作ってくれている痛みなので頑張れますが本当に痛いです。

 

この皮下注射は白血球などの減少傾向から反発して上がるまで連日皮下注射されます。

私の場合は5~7日間です。血液の成分が減少傾向から反発して増加傾向になれば皮下注射も止め、退院までのカウントダウンが始まります。

 

抗がん剤の投与も、その副作用も闘いですがこの『骨痛』との闘いやこの時期は抵抗力が弱いので感染予防との闘いにもなります。

 

当然、病室外に出られなくなりますし、抵抗力が下がりすぎたり、上がりきらなかったらクリーンルームというガラス張りで大きな空気清浄機が付いたの除菌室に入らなければいけなくなりません。ここに入っている間は家族との面会もガラス越しですし、一般の人とは面会すら許されません。

 

この回復期と言われる期間は患者も医師も看護師もすごく過敏になります。

ちょっとした、発熱、湿疹、発疹などにも目を光らせて感染してないか、感染源はないかと病棟自体がピリピリします。

私の場合の回復期は1~2週間。

待ちに待った退院はすぐそこなのにちょっとした油断、やるべきことをやらなかったせいで炎症起こしてしまったりします。本当に気が抜けない期間なんです。

 

歯磨き、手洗い、マスク着用。

 

本当に当たり前のことですがこれを忘れただけで炎症起こしたり、退院が長引いたり、治療が進まなかったりします。その炎症が時には重篤な事になることもあります。

私たち患者にとってもその家族にとってもとても気を遣う部分です。

 

私も自分が『悪性リンパ腫』になるまでは血液内科っていうところも、その感染症対策も全く知りませんでした。でも、ここの病棟に初めて足を踏み入れた時の異様な雰囲気、子供立ち入り禁止(子供は泥遊びなどで雑菌を持ってる可能性があるためと聞いています。)の注意書き、病棟入り口前の大きな人を寄せ付けない自動ドアもこの治療が進めば進むほど理解できるようになりました。

 

治療が滞るなんて怖いですもん。感染症も怖いですし、ましてやこの病気とさらに感染症で死ぬという可能性も現実的な数字です。

この数か月間で何人もの感染症にかかった急患の患者や入院患者が炎症を起こして治療中止になったケースを目にしてきました。

 

だから、ここで皆様にお願いがあります。

 

お見舞い客の中にもマスクしてない人や手を洗ってない人、汚れた作業服で来る人などたまに見ます。(作業服の人を中傷するつもりはありません。私もそうでしたし。)

もし、このblogを読んでいただいた人の家族、友人、同僚の中に血液内科に入院されている人がいらっしゃるのであればお見舞いの時に、少しだけそこで闘っている患者の事を考えてご協力していただければ幸いです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。

 

 

 

  

 

『チェリーパイ』はどんな味?

今回は病気の事も入院生活の事も忘れて番外編として『食』をテーマにお届けしたいと思います。今回の食材というか料理は『チェリーパイ』果たしてどんなエピソードでしょうか?!なんちゃって。

 

濃紫のお高いアイツ。

 

食べ物と言えば作るのも食べるのも好きな私。このblogやtwitterでも食べ物のエピソードをいくつか紹介してきました。今回の食のエピソードは『チェリーパイ』です。

『チェリーパイ』と言っても色々ありますが私が好きなチェリーパイは、

 

濃紫の『ブラックチェリーパイ』です。

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何が違うかと言われれば色が違うと言えば怒られそうですが、その色の通りに味に深みがあります。かといって他の果実の様なしつこさが無いのも好きなとこです。

しつこいものは嫌われます。

 

この『チェリーパイ』と私の出会いは小学5年生の時でした。

その時に食べて以来、この『チェリーパイ』は私の

 

My favorite Suites.

 

になりました。あれから30年以上、、、。今でもこの『ブラックチェリーパイ』を食べる時には必ず思い出します。あの時の事を。

 

あの日は今日以上に暑かった。

私が小学校5年生の夏休み。法事か何かで遠方からの親戚が我が家に集まった。

その親戚たちと熊本の観光でもしようという事になり、親戚たちと一緒に色んな所に行きました。

 

熊本城、博物館、プラネタリウム・・・。

「熊本城」の画像検索結果

wikipediaより

 

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水前寺公園 水前寺成趣園HPより

熊本市内の観光スポットを散策した後に、水前寺公園の傍でご飯を食べました。

 

色んな場所に行き、色んなものを買ってもらい、その上、近くのサーティワンアイスでアイスまで買ってもらった私はご満悦でした。でも、どこか落ち着かない私、、、。

 

それはなぜか?!

 

その多くの親戚の中に私よりも2つ年上の女の子が居ました。

 

名前はSusan.

 

そうです。その女の子はブロンドヘアーのアメリカ人でした。初めて彼女を見たときもこの時も、私は恥ずかしくって彼女を直視できませんでした。

私が見てるとたまに目が合いお互い恥ずかしくなって親の陰に隠れるという事が何度も続きました。アイスを食べ終わった時に、そろそろ帰ろうという事で帰りにケーキ屋で買ってもらったのが今回の主役である

『チェリーパイ』でした。

選んだのがSusanのお母さんだったのでチェリーパイになったんですが選んだのが私の母ならば今回のエピソードは『モンブラン』になっていたと思います。しかもきっと渋皮付きの。

 

家に帰り夕飯を食べて、バタバタとした一日が過ぎてみんながくつろいでる時にSusanのお母さんが言いました。

 

『さっき買ったパイをみんなで食べよう。』

 

姉達は大喜びでしたが私は困惑です。だって、食べたことないのに喜べないそんな感情でした。臆病で甘えん坊な私の気持ちを裏腹に切り分けられて私の前に並べられるチェリーパイのお皿。

 

『いっただきまーす』私以外の子供たちは大声で食べます。

※この時、女4男私1です。

 

私は恐る恐る眺めてはいるものの食べることは中々出来ませんでした。

手に持っては皿を置き、手に持って眺めては皿を置き。そして母親の方を見る。

でも、母親たちは楽しそうに談笑していてこっちを見もしませんでした。

 

今思うとなんで食べなかったのかなぁって思うんですがこの時は何故か中々食べれなかったという記憶があります。

 

私がどんな味がするんだろう?!甘いのかな?!すっぱいのかな?!って考えてるうちに姉やSusan達が美味しいと大騒ぎしだしました。

私はこの歓喜の渦に遅れるまいと勇気を出して食べようとした時です。

 

『パクっ!!!』

 

 

!!!!!

 

ぢううjkf;ぇこk・・・!!!

 

その時私の横に座っていたSusanが私のチェリーパイを一口食べてしましました。

 

『わたしこれすき!』

 

その青い瞳と片言の日本語で私のチェリーパイをモグモグしながら。

私はびっくりして声が出ませんでした。私のチェリーパイが食べられたっていうのもショックでしたがそれよりも私の頭の中で描いていた勝手なSusanの人物像が一瞬で消え去ったからです。

 

それまで勝手にイメージしてたのは金髪で大きな青い瞳のお人形みたいな女の子だったんですが目の前でまだ私のチェリーパイをモグモグしているSusanは金髪でソバカスがある食いしん坊のおてんば娘だったのですから。

 

まあ、この事が切っ掛けでSusanとも打ち解けて、お互いを名前と愛称のスージーと呼ぶようにもなりました。当時、テレビドラマ『オレゴンからの愛』の大ファンでもあった私はその主人公にもなったような感覚で異文化、異国語との交流に大興奮です。

朝早くから夜怒られるまで親や姉たちの目を盗みながら色んな日本の遊びをしたり、ファミコンをしたりして1週間くらい過ごしました。

でも悲しいかな必ずやってきてしまう別れの時。

お互い悲しくてあまり話もせずにお別れしました。その後、アメリカと熊本で文通を何度かしたきりになってしまいました。

 

あれから30年以上、私もスージーも今や立派なオッサンとMiddle agedです。

今思えば、これが私の初恋だったのかなって思います。このblog書くまでは名前とか思い出せなかったんですけど書き出せば出てくる出て来る(笑)色んな記憶が。

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今でも『チェリーパイ』を作る時はいつも思い出します。この前も作っていた時に子供に『パパは何でチェリーパイが好きなの?!』って訊かれて、少し照れながら正直にこのエピソードを話したら『パパにもそんな時あったんだねぇ~』って、ニタニタしながら言われました。

 

その後に『何で好きになったの?!』って訊かれましたが『忘れた』と言って、その時は答えませんでしたけど。

 

ここだけの話、、、。

 

私がスージーに好きになったのは、

 

私のチェリーパイ食べてお母さんに怒られている時に私の方を向きながら見せた

茶目っ気たっぷりのウインクしてくれた時でした。

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最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

抗がん剤治療第3クール その⑤

『悪性リンパ腫』の抗がん剤治療が進む中で色々な出会い、気持ちの変化、病状の変化を繰り返しながら過ごす日々。副作用が酷い日には、これは抗がん剤が効いてる証拠だと自分を励ます。そんな日々・・・。

 

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 ※ブログ内の薬品名、医学用語はあくまでも私が医師から聞いた話や自身で調べた結果による内容です。私は、医学を学んだわけでもありませんので、あくまでも実体験に基づいて書いております。もし、治療中の方や相談などはご自身の医師にお願いします。その点にご留意していただきますようお願い申し上げます。

抗がん剤の副作用に怯え苦しみながらも少しずつ少しずつ。

 

 

今回のクールから抗がん剤の量が増えて私の体の中に毎日3000ml位の水分が首のCVカテーテルから入ってくる。

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抗がん剤とそれを体の中に流す生理食塩水の様なもの。

 

それと内服薬。胃薬。頭痛の鎮痛剤。吐き気止め。血液をサラサラにする薬。

中性脂肪の増加を抑える薬。胃や腸内のカビの抑える薬。などなど....。

 

その数、11錠。これが毎朝。

『ラムネだったら良いのにぃ~♬』って歌いたいぐらいです。←分かる人いますかねえ(汗)

 

今や私の体は理性や人格よりもこの大量の薬達によって支配されているような気がします。

 

私がまだ健康な頃。

 

頭痛薬や胃薬を飲むのがカッコイイという風なファッション感覚で飲んでるような人たちが私の周りには居ました。そう言いう風に私には見えていただけかもしれませんけど。

『いやぁ~昨日、飲みすぎちゃってさ~さっき胃薬飲んじゃったよ~』っていう人。

『最近、悩み事が多くて~さっき、頭痛薬飲んだわ~きゃきゃっきゃ。』っていう人。どっちの人も楽しそうにその話がこの日の最高のトピックスのように話してました。

 

私はこの話をされるとき毎回この人たちが飲んでるのは胃薬や頭痛薬じゃなくて、それを飲んだよって話して、自分は頑張ってる。自分は苦労しているよ。って、自己承認の為の一種の精神安定剤なんだろうなって思ってました。

何故かというと過去に病院で処方された睡眠導入剤を誤って過剰摂取した経験から薬の怖さを知ってしまって薬に対しては嫌悪感を抱いてしまったからです。

↑あくまでも私が勝手に思ってるだけで苦しんでいる方を非難中傷するわけじゃありません。 

 

それ以外にも私の感覚では薬は高価なもの。

っていう認識がありました。それたちがそういう風に思わせていたのかもしれません。

 

薬は今みたいに簡単に買えなかったし、家の常備薬っていう置き薬の箱の薬を勝手に飲んだら、母には高いのにって怒られました。(置き薬は使った分を後から請求されるシステム)こんな事があってから、薬を飲むのが負けみたいな、飲んじゃダメって感覚で育ったような気がします。

 

今は、いつでもドラッグストアやコンビニで買える。その種類も豊富。

 

でも、今はドップリその薬によって命をつないでもらってる。因果なものだと思います。

 

その薬が首からのCVカテーテルから心臓近くの静脈まで薬を流し、私の血液の流れにのって、全身へ。心臓のポンプの力を借りてドックンドックンと。

 

私のからだ中にあるであろう『悪性リンパ腫』や『悪性細胞』を抗がん剤で破壊する。

悪性だけではなく、良性も。

 

その壊れた細胞や薬品は何処に行くのか・・・。

 

巡り巡って私の肝臓や腎臓、膀胱です。

 

残念ながら、この第3クール目で私の腎臓や肝臓はその薬や壊れた細胞によって傷を負ってしまい炎症を起こしてしまいました。そのお陰で治療も滞ってしまい肝臓や腎臓を回復、保護する為の薬を飲まないといけなかったりと面倒なことが増えてしまいました。

 

悪性の細胞を壊すために『抗がん剤治療』をしているのに、そのせいで良性の細胞も壊れてしまい感染症のリスクも高くなり、抗がん剤や壊れた細胞で肝臓や腎臓、膀胱を痛めてしまう。

 

本当に『がん』はやっかいな病気です。

 

こっちを立てればこっちが立たず、あっちを立てればこっちが立たず。

 

まさにこれです。こういう所が患者やその家族を不安にしたり、その治療法に不信感がる原因の一つになっているのかなって思います。そうならないように予防策や薬品などで対処はされているのですが万全ではないのが現状の様です。

 

これらを体の中に残さないようにする為のひとつの対処方法が『おしっこ』する。です。

 

壊れた細胞や薬品を体に残さずに『おしっこ』として体外に排出させる。これが最大の防衛策なのです。その為に、抗がん剤と一緒に大量の水分も点滴されます。薬が増えれば、水分も増えます。水分が増えれば当然おしっこが増えます。

 

おしっこが増えれば、、、。

 

睡眠が減ります。

 

この時の私の状態は、首にはCVカテーテル。そこには2、3本の抗がん剤や水分が繋げられ、心電図の電極のコードも3本体に繋がれています。

 

それらをトイレに行くたびにゾロゾロとなびかせていくわけです。昼夜関係なくゾロゾロと。

そしてこれが↑ピーピーと鳴ったりします。これは点滴を時間あたり何mgと流してくれる機械なんですがこれが、『規定量流したよ~』とか『チューブに空気が入ったよ~』とか『バッテリー切れたんだけど~』とか『なんとなく鳴ってみたよ~』って鳴るんです。

昼夜関係なく。他の患者が寝てる時も。今日もどこかでデビルマンじゃないですが、今もどこかで点滴機が鳴っています。

 

もう嫌になります。これが私の場合は1週間続きます。24時間休みなしです。でも、どんなに辛くてもおしっこを我慢することはいけません。壊された細胞が体の中に残ってしまうと『腫瘍崩壊症候群』や『膀胱炎』になってしまいます。

 

その為に毎日、朝、昼、晩3回の体重測定があります。この測定時に私の場合は、1.4kgオーバーで即利尿剤というおしっこがとめどなく出てしまう薬を投与されます。

この1.4kgが本当きついんです。他の抗がん剤の影響で便秘にもなっていまますから、その苦しさも倍増です。必死に昼夜トイレに行ってるにも拘らず私は毎日2,3回の利尿剤を投与されさらにトイレに籠り、心の悲鳴を上げています。

 

苦しい苦しいおしっことの闘いです。生きるための。

 

それが終われば副作用との闘いです。この闘病生活が始まるまでは、寝てればいいや~位にしか思っていませんでした。でも、この状態じゃ寝れません。これ以外にも検温の時間や内服の時間、食事、お風呂と看護師に起こされます。

 

患者も楽ではないです。

 

でもね。この時にひとつだけ良いこともありましたよ。

この日は『バレンタインデー』でした。もうすぐ面会時間も終わりって時に妻と子供が初めて作ったというチョコレートを届けてくれました。

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ママと一緒に作ったんだよ~と言いながら、

『〇〇君が気に入るかどうか分かんないけど』と同じクラスの男の子の事を言っていたのが気になりますが、、、。ついで、でもこの際嬉しいものです。

 

ここはポジティブに照れ隠しって事で有難くいただきました。

何とかこれからも闘って行けそうです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。感謝いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

抗がん剤治療第3クール その④

抗がん剤の量が増えての治療が始まった。『悪性リンパ腫』との闘いはまだまだ始まったばかり。私の体、人生はこの先どうなって行くのだろう。そんな思いをはせながら日は過ぎていく。

 

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 ※ブログ内の薬品名、医学用語はあくまでも私が医師から聞いた話や自身で調べた結果による内容です。私は、医学を学んだわけでもありませんので、あくまでも実体験に基づいて書いております。もし、治療中の方や相談などはご自身の医師にお願いします。その点にご留意していただきますようお願い申し上げます。

 

新たな出会い。残念な出会いと嬉しい出会い。

 

この『悪性リンパ腫』との闘いにもう慣れたかって思って来たのだけど、、、。

甘かった。勿論、薬の量が増えたことによる体のキツさ、ダルさ、痛みは前より酷さを増し、日に日にそれも強くなっていくようだ。これが今回の入院の残念な出会いだ。

 

薬の量が増える=副作用も増える。

 

頭では分かっているのだけど体と気持ちが付いていかない。この時期から主に出始めた副作用と言えば、色素沈着と体の痒み、脚の攣り。

脱毛、頭痛、ふらつき、吐き気、指先の痺れは以前からあったのだけれど今回から上記の症状が増えた。と同時に今まであった副作用も大きくなった。

これまでこのblogで書いてきたのが可愛いかの如く思える症状まである。

 

体と心が自分の体内で起きている事についていけない。

 

これが率直な感想だった。不安というか、考えや頭の回転が間に合わない。

私は神経質で臆病な人間なので自分にどういう事が起きるのかを事前に知りそれに出来るだけ対処して臨めるようにして来たというのも大いにあると思うのだけど。

 

その変化が早すぎた。それまでも顕著だった頭髪の脱毛も一気に抜けて殆ど頭から無くなった。ペンを持つ指やリモコンを押す指の感覚も分からなくなり、強く押しすぎたのかその後には痛みを感じるようになった。

 

医師や看護師は言う。副作用は人それぞれですから。その言葉が私を不安にもした。

私の『悪性リンパ腫』は酷いのじゃないのか?進行が早いから薬の強度も上げたのではないのか?この手の痺れや脱毛というものは回復するのだろうか?

 

今思えば、その多くが慣れや知識によってある程度は取り除かれることになるのだけど。ある程度はね、、、。

 

この時の髪の毛。一応ショック受ける方もいると思うのでリンクしました。⇩

頭頂部

https://goo.gl/pCb3fN

側頭部

https://goo.gl/WjBJjc

 

約2週間前はこんな感じでした。

前頭部及び頭頂部

https://goo.gl/m5a9y2

後頭部

https://goo.gl/FXoKzM

側頭部

https://goo.gl/BTWZ0o

 

この髪の毛もそうですし、一旦は自分の状態や病気のことも飲み込んだはずなのにこの『悪性リンパ腫』ってやつは、毎回毎回振り出しに戻すようなことになるなって思いました。再発のリスクや他の病気に発展するという事もある病気なので気が抜けることは無いのでしょうけど。

私の当面の目標は『寛解』(かんかい)です。まあ、目安というか。『寛解』したからといって、、、な病気なのも分かりますが。

 

何でこんなことになったのか、、、。考えない日はありません。考えても答えが出ることもありませんが。

 

でも、そんな日に私に初めての友人というか患者仲間が出来ました。年は私よりもずっと若く、好青年と言う感じの男性です。病気の種類は私とは違いましたが『悪性リンパ腫』でした。この青年と出会えたことで私はとても救われました。

 

この病気になった時に(もっと年齢が若かったり、独身だったら死んでもよかった。)(もっと、自分が年を取っていたのなら諦めもついたのに。)って考えがありました。

 

でもこの出会いで自分の愚かさというか浅はかな考えに恥ずかしくなりました。

私には彼の真っすぐ私を見る、その目から戸惑いながらもこの『悪性リンパ腫』と闘うという姿勢が伝わってきました。

 

なんて自分は馬鹿な考えを、、、。頑張ってる。頑張ろうとしている人がこんなにも近く目の前に居る。

 

嬉しくて、その夜一人泣きました。

 

今までと違う、悲しさや悔しさの涙ではなく。

 

嬉し涙なんて当分流すことも無いと思ってました。でも、泣きました。

この時の出会いでこの青年がどれほど私を救ってくれたか。

 

それから、毎日、暇さえあればお互いの病室を訪れ、病気の話、仕事の話、恋愛の話、いろんな話をしました。お互い調子が悪ければ会いに行くのを避けたりもしました。

まだ出会ってほんの数日なのに本当に長年の友人の様な感覚で、修学旅行の夜の様なワクワクしながら喋る感覚でした。

 

その彼も入院生活が終わり私より早く、社会復帰をしながら外来受診という方法でこの病棟を去り、この闘う事になりました。最後病室を出ていくときに彼のお母様から礼を述べられたけれどとんでもないです。私の方こそ、、、。っていうくらいが精一杯でした。

彼と病院の中で過ごすことが出来なくなったのはすごく寂しい事ですけど、すごく嬉しいし頑張って欲しいです。

 

少しだけ悔しいですけど、、、。

 

彼は今でも外来受診の時に顔を出してくれます。 自分が苦しい思いをした病院、病棟、病室にまた、足を踏み入れるわけです。私に会うために。

 

勇気いる行為だと思います。

 

私にはそれが出来るかどうか、、、。

 

でも、その時には少し照れくさそうに私が好きなコーヒーと甘いお菓子を手に提げて、

『お久しぶりでーす。』って来てくれます。

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↑写真はイメージです💦

 

ありがとうございます。あなたに会えたからまた、闘おうという気持ちや自分の弱さに気付くことが出来ました。いつか、あんな辛い治療にもよく頑張ったねぇ~って言いながら酒を飲むの約束はまだまだ先になるでしょうが嫌って言うくらい生モノ、刺身食べましょうね。

 

今回は私が出会った残念な出会いと素敵な出会いをご紹介いたしました。

今思えばこの時期辺りからあんまり病気の事や副作用の事をネガティブ考える事無かったかなぁ思います。出会いってありがたいですね。

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。

『感謝。』あなたが産んだから私がいる。

今日は『母の日』です。私の母は69歳と3ヶ月で私たちから旅立ちました。今回はそんな母に感謝を込めて書いていきます。

 

 

『あんまり言えなかった。お母さん、ありがとう。』

 

 

私が生まれたのは昭和40年代。今から40年以上前です。テレビもブラウン管カラーだったかどうかは覚えてません。家族は父と母と姉と私の4人家族。

 

母は専業主婦。たまにパートやってました。その後、父と自営業を営みます。

父は職人。姉は意地悪でした(笑)

姉が私に意地悪になったのは私が両親を独り占めにしたからだと思います。

もちろん、両親は姉の事も愛してたと思いますが理由はあります。

 

母は私が物心つくまでに沢山の悲しい思いをしてきたと思います。私が生まれる一年前に双子の女の子、つまり私の姉二人と産後1週間での相次ぐ死別。

 

そして、一年後に生まれた私は生後11か月で『特発性血小板減少性紫斑病』という病気にかかってしましました。どういう病気かと言いますと血液の病気で血小板という血液を固める成分が極端に減少してしまい体中に青あざが出来たり、もし出血を伴う怪我をしてしまうと血が止まらなったり、鼻血や酷い時は脳内出血などもしてしまう病気です。

 

特定の疾患として指定難病としても認定されてある病気です。

 

私自身には全くこの時の記憶がありませんが同じ親として、この時の両親の心境を考えると言葉が出ません。

発覚したのは夜中おしめの交換の時に私の大事な部分が異常に腫れて化膿していたとのことでした。急いでかかりつけの病院に駆け込んでも、ここでは出来ないと言われ

慌てて大きな総合病院で血液検査をした結果、出された検査結果がこれでした。

 

『今の症状が治ったとしても薬は一生手放せない。』と医師に言われたそうです。

 

だから、私の赤ちゃんの頃の写真の大半はベッドに両手、両足を包帯で括り付けられて抑制されている痛々しいものでした。母は病院で私に付きっきり。父も朝起きたら私の病院に毎朝駆け付けたと言います。まだ、すやすや寝てる姉を起こすのはかわいそうと隣のおばちゃんに姉の面倒を頼み毎朝通ったと聞きました。

 

3、4歳の姉は家で一人。朝、目を覚ますと家に誰もいなく毎朝泣いていたそうです。その泣き声に気付いた隣のおばちゃんが姉の面倒を見てくれるという毎日だったようです。

そりゃあ、私に意地悪になりますよね(;´Д`)かわいそすぎます。ごめんね、姉ちゃん。

この事が理解できたのもずっと、ずっと後です。

今ではお互いが一番の理解者だと思うくらい仲が良いですが。

 

この病気のせいで両親、特に母は常に私のことを心配してました。両親共働きになると、家の中では意地悪な姉と二人。いつも怪我だらけの私。

自分で怪我したものもありますが姉との喧嘩で付いた傷もいっぱいありました。

その度に姉は怒られたと思います。姉という理由だけで。

 

この難病自体は3歳ぐらいに完治して薬も飲まなくてよくなりました。この辺から私の記憶も残ってます。

 

母の印象を一言で言うと、、、。『大雑把。大胆。』かなぁ?!『手際が良い』とも言えますかね。

 

表現としては良い表現では無いですがその大雑把なやり方で何でもこなしてしまうので凄い人だと思います。料理も家事も仕事も段取り良くやってくれていたと思います。

今と違って、何でも揃ってない時代です。

 

夏の定番の麦茶も麦から煮出したり、そうめんのつゆも鰹節からとってた時代です。

この時代を生きた人ならこの、そうめんのつゆと麦茶を間違えて一気飲みした人も多いはず。私もその一人でしたから。

 

父の仕事が波に乗り、独立して従業員や一緒に暮らす親族も増えていきました。

一番多い時は10人家族。猫7匹犬11匹いました。もう、家の中も家の外も賑やかでしたよ。ご飯の時も戦争です。唐揚げも3kgとか揚げてたんじゃないですかね。もう笑ってしまいます。大皿にのせられた唐揚げの奪い合いです。その時の私の序列は年齢的に下から2番目。台の上の大皿にも立ち上がらないと手が届きません。箸の使い方もまだまだ人生の先輩たちには敵いっこありません。

 

でも母はそんな私を見かねてこっそり私のお皿に自分のお皿の唐揚げを分けてくれたり、おかずが魚の時は骨が嫌だった私の為にウインナーを一本だけ焼いてくれました。この一本のウインナーがどれだけ嬉しかったことか。

 

ご飯も1食で1升炊いても足りないって、、、。笑うしかないです。それを母一人で作っていたのですごいですよね。他にも私の体操服のゼッケン縫い付けてくれたり、雑巾を手で縫ってくれたり。

 

小学生の頃、母に『お母さんの趣味って何?!』って訊いたことありました。

運転していた母は私の顔を見ることもなく一言『そんな暇ない。』と言い放ちました。

趣味ないとか可哀想と思いましたが、今思うとそんな暇ねぇ~~~って感じですよね。

 

今の時代の人は、おそらく何かしないといけないとか自分の時間を持ちたいとかに必死になったりすると思うんですよ。私もそうですし。でも、母の時代はこれが普通というか家族の為に必死だったんですよね。学校で何があったの?!とか訊くんじゃなくて、とにかく頑張ってる親の背中を見せる。両親そんな感じでした。

 

当時の子供たちも、その背中や夜中トイレに起きてふすまの隙間から肩をトントン叩きながらはぁ~っとため息つきながら縫物などをしている母の姿を見たのは1度や2度ではないはずです。その度にお母さん、頑張ってくれてるなぁ。明日は早起きするぞぉ~って思いました。←起きれないんですが(笑)

 

子供の時、母が自分より先に寝て後に起きるなんて見たことありませんでした。

 

起きたら、朝ご飯出来ていましたし、学校から帰ると夏はスイカやメロンが切って冷蔵庫に入ってたり、牛乳寒天やフルーツ寒天が入ってたり。冬はストーブで焼かれた焼き芋があったり、ストーブの上でぜんざいが作ってあったり。

 

書いてて感心です。すごいです。母の凄さと自分の不甲斐なさで溜息が出ます。

 

今の時代は便利ですよ。物も買えるし、しかも、いつでも。体操服にゼッケン付けるのもアイロン。学校に持っていく雑巾も100円均一に行けば売ってます。

寒天よりも見た目綺麗なゼリーやアイスがいつでも売ってます。焼き芋や、ぜんざいだって電子レンジやお湯を注げばすぐに食べれます。

 

でも、母が作ってくれたそれとは違うんですよね。100円均一の雑巾なんて使ってみたけどすぐダメになります。私の母の雑巾はクラスで一番もちました。誇らしかったな~あの時の母の雑巾。

ゼッケンも剝げたことなんてないです。毎年、数字を強引に書き換えるだけで何年も使えました。

 

寒天やぜんざいも夏はクラーの無い部屋でも涼しくなり、冬はいつまでもポッカポカでした。

 

今の時代は便利になった分、ものへの愛情や愛情のあり方が変わってしまったなって思います。『物を大事にしない人は人も大事にしない。』私が幼い頃、おもちゃを壊したり、物を失くす度に言われました。ホントそうだなぁって思います。

 

そんな母が一度だけ、寝込んだことがありました。住宅関係の父の仕事で休みなく年末まで働き、年始になっても仕事が終わらずに父は仕事をしていました。

 

母は、私と姉を車に乗せて正月の挨拶に父の親の里の長崎県と大分県に連れて行ってくれました。毎年、お正月とお盆には行っていたので恒例行事なんですが、長崎と大分って九州の西端と東端なんですよね。その真ん中が私が住んでる熊本県。当時はどっちも高速道路なんてありません。片道3時間以上のロングドライブです。

 

年末までの疲れか母は明らかに疲れを見せました。それぞれのお爺ちゃんの家、お婆ちゃんの家に行けば気丈に振舞うのですが道中は度々、車を路肩に止め、私と姉で肩や腰を揉んでいました。そんな母が正月の挨拶も終え家に戻ったとたん倒れました。

 

母はそのまま3日間くらい寝込みました。『ごめんね。ごめんね。』っていいながら。

母の顔を見たくて日中行こうとすると姉から『今行くと起きるから行ったらだめよ!』

と何度も怒られたので夜中に会いに行ったり、濡れタオルをおでこにあてたり、氷枕を変えたりしました。どれもこれも人生初めての経験でした。氷枕のめんどくささと言ったらないですよ。

寝ている母を起こさないように濡れタオル絞るときに洗面器に落ちるしずくの音をたてないようにそぉーっと絞って、びちゃびちゃのまま、おでこに乗せて逆に起こしてしまったり、看病してるはずの私が寝てしまい母の布団を掛けられてたり、失敗の連続でした。

 

おかゆを作ったのも誰かの為に一生懸命料理を作ったのもこの時が初めてでした。

白ご飯を鍋に入れて、水入れて塩入れて。分量なんて適当です。美味しかったかも分かりません。でも、このおかゆを作った時に(おかあさんは、どれくらい入れてるんだろう?!)って興味を持ったのを覚えてます。ここも料理好きになった原点の一つですね。

 

寝ている母の傍におかゆを持っていき『おかゆ作ってきたよ!』とおそらく目をキラキラさせていたと思います。美味しかったかどうかは分かりませんが、

母は『ありがとう。本当に優しい子ね。』って頭を撫でてくれました。

 

この事は私が大人になっても笑いながら話してくれました。

『あの時は本当にありがとうね。』って。それが小学校3,4年位の時でしたから今から30年以上は前の話です。親も子供もそれが当たり前だったような気がします。

 

色んな家庭があったけど私の周りの親は誰もが一生懸命でした。子供も自分たちの事は出来るだけ自分たちでやっていたような気がします。小学校の時の先生にいつも言われていたことが

 

『〇〇は自分の事や叩かれて泣くことは無いけど、お父さんお母さんの話すると泣くよね。それだけ、お父さんお母さんが好きなんだね。』って言われました。成長過程でこんな家、親は嫌だ!!!って思ったこともありましたけど、この家でこの生活で幸せだったなと思います。

 

今は私も親です。子供には言葉で思いを伝えるのも必要だと思いますが、背中や態度で示すことも大切なことだなって思った『母の日』なりました。

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今は私が味を思い出しながら作る母の料理を私の子供が美味しいと言って食べてくれます。

まだまだ、母のそれとは違いますがいつかは父や姉にお母さんの茶碗蒸しだね!って言われるようになりたいですね。

 

 

『お母さん、私を生んで育ててくれてありがとう。私はあなたの子供で良かったと思います。これからもそれを誇りに生きていきます。ありがとうございます。』

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。感謝いたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

抗がん剤治療第3クール その③

 

『悪性リンパ腫』治療の3クール目。『R-EPOCH療法』の3日目。

2日目の検査で造影剤のアレルギー反応はあったが検査自体は問題なかった。あらたな腫瘍の進行も無く担当医の話によれば概ね治療は順調という事だった。2日目の夜、嫌な嫌なCVカテーテルの装着も終わった。これからは副作用との本気の戦いが始まる。

 

今回のブログはシリーズものです。まだの方はこちらからどうぞ↓

www.orangelamp8.com

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検査を終えて3日目の朝。

※ブログ内の薬品名、医学用語はあくまでも私が医師から聞いた話や自身で調べた結果による内容です。私は、医学を学んだわけでもありませんので、あくまでも実体験に基づいて書いております。もし、治療中の方や相談などはご自身の医師にお願いします。その点にご留意していただきますようお願い申し上げます。

 

 担当医が私の病室を訪れてこう言った。

『おはようございます。先日、話した抗がん剤のレベルを上げたいと思います。

治療は予定通り今日から行うんですが抗がん剤が届き次第治療を開始していきます。』

事前に聞いてはいたが今回も直前での治療方法の変更だ。今回に限っては変更というよりも改善と言った所か。

 

薬のレベルが上がる。

 

日本で行われる抗がん剤治療の基準は欧米人のデータを基にされていると、この時に初めて聞いた。欧米人は日本人よりも体が大きく、持っている酵素なども日本人も含まれるアジア人のそれとは違うそうだ。だから、薬を分解できる量も耐えられる量も違うらしい。当然、抗がん剤も同じ量、同じ強度では行われない。

なぜなら、アジア人の体がその治療に耐えられないからということだった。

(体格、体質、体重によってはそうでは無いかもしれません。)

 

耐えられない、、、。

 

『つまり、死ぬという事?!』と私は訊いた。

 

担当医は硬い表情で言葉を選びながらこう言った。『そうなることもあります。』

その表情を見て私は覚悟をした。

 

抗がん剤の治療にレベルがあることも治療方法が色々あることもこの時初めて知った。

先日知った造影剤でのアレルギー症状や血管漏出の事も、この時から気になっていたのでこの日からより具体的にblogを書くことにした。

 

備忘録の一環として始めるつもりだったこの

『風邪だと思ったんですが、、、。悪性リンパ腫闘病記』

だけど同じ病気や同じような病気な人、ケガや孤独と闘ってる人やその家族に知って欲しい、伝えたいという風に変わっていったきっかけの一つになった。

 

 

そして、、、実際この日から薬のレベルは上がった。

 

前回の抗がん剤のレベルは『R-EPOCH療法』のレベル2だった。今回からレベル3に上がった。

 

ここで使っている薬品と実際に投与された薬品の量を紹介したいと思います。

1日の投与量では無くて1クール当たりの投与量です。予め薬剤師が医師と相談して、計算で出た数字では無くて、私の体調などによって予定より、少なく投与された可能性もある為にここでは実際の投与量を書いていきます。

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前回までのR-EPOCH療法 抗がん剤投与量 Lv2 の場合

(これは。私の病状、心臓の合併症、体格、体質を考慮して作られたものです。人によって違います。あくまでも私に投与された量です。)

リツキサン・・・650㎎

ピンクシリチン(オンコビン)・・・0.69㎎

ドキソルビシン・・・20㎎

エドポシドリン酸塩(エドポシド)・・・100㎎

シルクファミド(エンドキサン)・・・1500㎎

水溶性プレドニン(ステロイド)・・・100㎎

※カッコ内は商品名です。

 

⇩この今回からこうなりました。

 

今回からのR-EPOCH療法 抗がん剤投与量 Lv3 の場合

(これは。私の病状、心臓の合併症、体格、体質を考慮して作られたものです。人によって違います。あくまでも私に投与された量です。)

リツキサン・・・650㎎

ピンクシリチン(オンコビン)・・・0.69㎎

ドキソルビシン・・・25㎎

エドポシドリン酸塩(エドポシド)・・・125㎎

シルクファミド(エンドキサン)・・・1800㎎

水溶性プレドニン(ステロイド)・・・100㎎

※カッコ内は商品名です。

 

見ていただくとお分かりになると思いますが今回の治療から下記の3種の抗がん剤が増えております。

ドキソルビシン・・・5㎎増

エドポシドリン酸塩(エドポシド)・・・25㎎増

シルクファミド(エンドキサン)・・・300㎎増

 

ここで各薬品の働きと副作用を書いていきます。(過去blog記事より)

 

私の病名はびまん性大細胞型B細胞リンパ腫です。

 

興味ある方、知りたい方はこちらもどうぞ⇩

抗がん剤治療 2クール目 その① - 風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

 

抗がん剤治療 2クール目 その② - 風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記- 

 

抗がん剤治療 2クール目 その③ - 風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

 

抗がん剤治療 2クール目 その④ - 風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

 

抗がん剤治療 2クール目 その⑤ - 風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

 

久しぶりの笑顔。抗がん剤治療 2クール目 その⑥ - 風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

抗がん剤治療 2クール目 その⑦ - 風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

 

 

R-EPOCH療法に用いられる薬品とその副作用まとめ

 

()内は商品名。別名です。詳しくは、薬剤師、医師へ確認ください。

 

R・・・リツキシマブ(リツキサン)

・アレルギー症状として悪寒、悪心、頭痛、掻痒、皮疹、咳、虚脱感、血管外漏出 など

 

 

E・・・エトポシドリン酸塩(エドポシド)

骨髄抑制・アレルギー反応・骨髄抑制・間質性肺炎など

 

 

P・・・Prednisone(商品名プレドニゾロン)ステロイド薬

・感染症、骨粗鬆症、糖尿病など

 

 

O・・・Oncovin(商品名オンコビン)Vincristineビンクリシチン(商品名オンコビン)

・骨髄抑制、末端神経障害、脱毛、錯乱、昏睡、イレウス、消化管出血、消化管穿孔、アナフィラキシー、心筋虚血、脳梗塞、難聴、呼吸困難・気管支痙攣、間質性肺炎、肝機能障害・黄疸など 

 

 

C・・・Cyclophosphamidシクロホスファミド(商品名エンドキサン)

・アナフィラキシー様症状、骨髄抑制、出血性膀胱炎、排尿障害、イレウス、胃腸などの炎症、肺炎、心筋障害、心不全、肝機能障害、急性腎不全、黄疸など

 

 

H・・・Hydroxydaunorubicinドキソルビシン(商品名アドリアシン)

・心筋障害、心不全、骨髄抑制、出血、頻脈。口内炎、嘔吐、悪心、食欲不振、下痢、脱毛、発熱など

 

 

この中のE・C・Hが増えるという事は?!

 

 

E・C・Hの副作用は、、、?!

 

骨髄抑制、アナフィラキシー様症状、骨髄抑制、出血性膀胱炎、排尿障害、イレウス、胃腸などの炎症、肺炎心筋障害、心筋梗塞、口内炎、嘔吐、悪心、食欲不振、脱毛、発熱、肝機能障害、急性腎不全、黄疸・・・等々。

 

『はあ~~~。』深い深い溜息が出たというか声が漏れた。この事を調べている病室のベットの上でスマホ片手に寝転がりながら見てたんだがベッドの上にそのまま腕を投げ出した。

 

『やーめた。』思わず声が出た。今回から4人部屋になり、他の患者が寝静まった病室で、そんなのも気にしないくらいに声が出た。

それほど、嫌なマイナスなネガティブな情報だった。良いことは一つもない。

しいて言えば、、、。

今の病状を改善できるかもしれないという事だった。←これの為に治療をしてるのだが、、、。

 

 

病気やケガが長引けば長引くほど、この繰り返しかもしれない。立ち直ったり、上を見あげた瞬間、次の山が見える。それも前回の山より大きく険しい。

でも、私は今までの経験からしっかりの準備して挑めば対応できるだろうという事も少しではあるが感じていた。でもなぁ・・・。不安と期待が交錯する。

 

『もう寝よ。』そう言ってスマホの画面を消すこともなく、充電器を指すこともなく放置して目を閉じた。

 

 

この日は前回までと同じ量の同じ薬。次の日から始まる『R-EPOCH療法』のレベル3の治療に向けて早めに寝ることにした。

どうにかなるよな。前もそうだったし。今回もきっと・・・。大丈夫だよな。と。

 

 

最後まで読んでいただまして、ありがとうございました。感謝いたします。