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風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

人生で初めての入院生活。自分、家族、仕事、人生とは⁉入院生活で感じた事や闘病記録、家族との過ごし方、趣味や特技の事を綴っていきます。

友との約束。

4月19日この日は私の幼馴染の命日です。あれから、30年近くの歳月が流れ、私は大人になりました。結婚もし、子供ももうけることが出来ました。彼の葬儀で棺に眠る彼に涙を流しながらした約束。

『おまえの分も強く生きる。』私の自分勝手な約束ですがこれを胸に生きてきました。

 

あれは私が高校生の頃。入学して間もない高校一年生の体力テストが行われる日の事でした、、、。

 

 『1年〇組の〇〇君。職員室まで来てください。』まだ友達もまばらな入学当初、突然私は校内放送で職員室に呼ばれました。その時一緒に居た友達に『お前何したんだよ!』と冗談を言われながら私は職員室へ向かいました。

 

(何か怒られるようなことしたかな、、、?!)など考えながら。

 

ガラガラと職員室の引き戸を開けながら自分のクラスと氏名を大きな声で言い職員室へ入りました。すると一人の先生が私宛に電話がかかっていると教えてくれました。

 

私はその受話器を受け取りました。

 

『もしもし、〇〇ですけど。』そう名乗ると『私は〇〇警察署の〇〇と申します。〇〇君ですか?』と訊かれました。警察から?!私に?!何かした?!と首をかしげながら

『はい』と答えると『実はね、、、』と話が始まりました。

 

その警察の話はあまりにも突拍子もなく私の頭には入って来ませんでした。

 

私はその警察官としばらく話し『分かりました。』と受話器を置きました。職員室を出る時に頭を下げ、扉を閉め自分の教室に戻っていると涙が次から次へと溢れてきました。

 

警察からの電話は私の幼馴染の死の知らせでした。事故と自殺と事件で調べているので話を聞かせて欲しいという事だったと思います。あまりの衝撃に内容はあんまり覚えてません。でも、自殺するような奴ではありません。と強く何度も行ったことは今でも覚えています。

 

その幼馴染とは保育園に通っていた、おそらく3歳位からの付き合いでした。気が小さく、自分の言いたい事もあまり言わないでも。自分の意見は持っているという男の子でした。誰よりも気が小さく、誰よりも優しい男の子でした。

 

彼が幼い頃に彼の父親が家を出てしまい彼は3兄弟の真ん中として彼のお爺ちゃんとお婆ちゃんに育てられていました。幼かった時の私は彼の寂しさも、悔しさも分かりませんでしたけどお互い成長するにつれてお互いの事を理解し和え、お互いの強いところ弱い所に共感を抱くようになったと思います。

 

お父さん、お母さんが居ない。私には当たり前にいる存在が彼には居ませんでした。

 

だから、彼は自分の意見も言えなかったんだと思います。自分が何か言ったせいでまた、寂しい思いをすることになるかもしれないから、、、。

 

私は成長するにつれてそんな事を彼に対して思うようになりました。彼の寂しさ、優しさの原因が分かったような気がした私は小学生になってからはほとんど彼と遊んでばかりいました。

魚釣りをしたり、鬼ごっこをしたり、ファミコンしたり。当時発売された『ドラゴンクエスト』も彼から借りましたし、『スーパーマリオブラザーズ』も彼から借りて遊びました。

 

ずっと一緒にゲームがしたくって今日家に泊まりなよって言って彼を困らせたりもしました。そのたびに彼はこう言いました。

 

『婆ちゃんに怒られるから帰る。』

 

彼にとっての婆ちゃんは絶対でした。どんな時もどんな時も。いつも婆ちゃんが婆ちゃんがと言ってました。彼の婆ちゃんは当時の私の嫉妬の対象でしたが今思えばしょうがないですよね。

 

彼にとってはおそらく唯一の愛情の場所だったんですから。保育園の時から高校になっても婆ちゃんが婆ちゃんがそれが彼の口癖でした。

 

そんな彼が婆ちゃんを残して死ぬわけがない。これが私が彼の自殺を強く否定した理由でした。今となってはどう調べようもないですし、もうこの件はどうでもいいような気がします。それだけ時間が過ぎてしましました。

 

職員室での電話が終わった後に同じ同級生の何人かと学校を出て彼の家に向かいました。汗だくになりながら涙を流しながら必死に自転車のペダルを踏んだことを覚えています。

 

彼の家に着いたその時も、葬儀の時も1周忌の時も彼の婆ちゃんは、

 

『悔しい悔しい私が代わりに死ねばよかった。』

 

と言って涙をぼろぼろ流していました。

毎回私もその姿を見て涙をぼろぼろ流しました。彼の命日に彼の仏前で手を合わせ、その後に婆ちゃんと話をしながらもそれは繰り返されました。何回も何十回も。

 

数日前に夢の中に彼の家と彼の婆ちゃんが私の夢に出てきました。私は墓参りの催促かと思い今日、彼の家に向かいました。

 

3年ぶりに行った彼の命日の墓参り。

 

私と彼のお婆ちゃんの恒例ともいえる命日に一緒に涙を流す。それも終わりました。

 

彼の婆ちゃんは2年前に亡くなっていました。今年、私は彼と彼の婆ちゃんの仏前の前で一人で涙を流しました。

 

『良かったね。婆ちゃんと会えて。婆ちゃんも良かったね。〇〇と会えて』と。

 

彼の家も婆ちゃんが居なくなった今、誰も住んでいませんでした。亡くなった時の彼の遺影も婆ちゃんが座っていた座椅子もそのままの状態でした。

 

ただ一つ違っていたのは、彼の遺影の横に婆ちゃんの遺影が増えていたことでした。

彼の横に掲げられたその遺影の中の婆ちゃんは少し嬉しそうでした。彼も。

 

『良かったね二人とも。やっと会えたね。』

 

そんな事を思いながら私は彼と婆ちゃんの家を後にしました。もう彼の家にお参りに行くことは無いでしょう。婆ちゃんも居なくなったし。彼と婆ちゃんのお墓には行きますがね。

 

私が一方的に交わした約束。

 

私は彼の分も生きて来れたでしょうか。彼がおそらく出来なかった恋愛もし、結婚もし子供も出来ました。

 

あの時の記憶はそのままに、いつもあの時の彼が私の中には今も生きています。

 

まだまだ、約束を果たせたと思っていないので彼の分も頑張って生きようと思ったそんな一日でした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。

 

 

↓彼と最後に会った道はあの時と変わらないまま。

私が毎月買っていた月刊少年ジャンプと彼が毎月買っていた月刊少年マガジンを取り換えっこしようというのが最後の会話でした。結局果たされませんでしたが。

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↓私たちが通った保育園は無くなっていました。

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↓私たちが小さかった時に植えられた木もこんなに大きくなっていました。

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↓彼のお墓ではつつじの花が私を迎えてくれました。

 

 

 

 

 

 

熊本大地震 あの日起こった事。最終回

救援物資を車に乗せて一路熊本に戻る私。全国から続々と集結する救援物資を載せてるであろう車の列が続く。ありがたい。

こんなにも人の温かみを感じたことがあっただろうか、、、。

 

何処までも続きそうな熊本への車列に思わず涙があふれる。

 

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 ようやく熊本までの車列も解消され実家へとたどり着く。時刻はもう遅い時間。

体はクタクタだけども友人や知人に連絡を取った。

実家に避難している者、避難所に避難している者、自宅に要る者、連絡がつかない者。

様々居た。

連絡が付いた者はみんな変に興奮しているように話し、その話は深夜まで続いた。

きっと皆、不安なんだろう。私もそうだ。

皆、連絡が付いた安心感と不安感で話の内容は多方面に渡った。

家族の事、地震の被害、他の者の安否。そして、これからの事の事だ。

 

これからの事なんかは私はとてもじゃないが考える余裕など無かった。家の片づけ、子供の学校の事、仕事、全て今は出来る状況ではなかった。

 

それもその筈で余震は度々ある。夜中にも何度も揺れ、その度に起こされた。

起きて、この地震は外に逃げた方がいい大きさなのか、それとも、このまま目を閉じて眠ってもいい地震なのか判断しなければならなかった。これは、最初の地震発生から1か月以上過ぎても続いた。

 

そして、みんな口々に言った。まさかこんな事になろうとは。私もそう思った。災害はいつも突然で特に地震なんてものはどれだけ研究が進んでも発生時間の特定なんて不可能だと思う。この本震の時だってどこかの大学の専門家はニュース番組の中で余震の4月14日から1週間以内に大きな地震が起きる確率は30%と言っていた。

 

本震が来る前日の夜に、私は車に物を積み込んでいる時(30%か、、、じゃあ、来ないかなって思っていた。)でも、その30%が来てしまったのだ。

 

何人かの友人と話をして、私は救援物資と共にまだ寒いこの季節に体を温めてもらおうと豚汁とミネストローネ、おにぎりとコーヒーを大量に作った。それを家中や空いてるお店などで容器を買い込み詰め込んだ。少しでも手助けになればいいと。少しでも元気を出してほしいという気持ちを込めて。

 

そして、ほとんど寝ることもまだ薄暗い中、車を走らせてなく友人たちが居る避難所に向かった。

 

何処の避難所もいっぱいで足の踏み場などはほとんどなく、プライバシーなど無かった。男、女、赤ん坊、子供、年寄り。全てが一緒に居て一緒に寝ていた。

 

私が廻った避難所のひとつで、中年男性が救援物資のおにぎりを配る小学生くらいの子供に他の味をくれだとか、一個じゃ足りないとか詰め寄っていた。この中年男性が普段どんな生活を送っているかは知らないが緊急時にこうなってしまったのか、もともとこんな人なのかどちらにせよ悲しくなった。

 

友人やその家族に作ってきた豚汁などを渡すと涙を流して喜んでくれた。温かい料理。

普段は当たり前に食べれる料理。それが今は満足に食べることが出来ない。この今の日本でそんなことが起こっている現実に本当に悲しくなった。

 

数か所の避難所を回って分かったことは、街中に行けば行くほど救援物資は多く支給されているようだった。私が居る実家は熊本市内の中心部から同じ熊本市内から30分車で走った場所。そこまでは全く救援物資がこの時点では届いていなかった。

 

後々のニュースなどで大規模な災害が起きた際にこの時点でほとんどの自治体が新旧災害時のマニュアルが定まっていなかったり、そのマニュアルの内容を把握されてなかったりという事が分かった。このニュースを見たときにこの日本で私が生きている間に何度も大きな地震が起きたのに。何で!?何で?!という大きな憤りを覚えた。

 

日頃の業務が忙しいのも大変なのも分かる。でもこのような時に国民、道民、都民、府民県民、市民、町民、村民がどこを頼るのか。どこに向かって救援を待つのか。おそらく自治体なのである。緊急時にはこのような方法に従ってくださいなどと書かれた掲示物や避難経路を示した会報などを目にしたことがある。でも、どれも機能していなかったような気がする。

 

皆が大変。皆が被害者。それも十分理解している。でも、どこに行っても。私の家には救援物資は届かなかった。

 

私とその近所の家族はお互いが手に入る食糧や飲み物を分け合いこの状況を乗り切ることが出来た。移動も出来たし、支えあう事が出来た。

でもそれも出来ない人たちは、いったいどうしてこの状況を乗り越えることが出来たのだろう。

 

↓水の救援物資を求めて子供も一緒に運んでくれました。

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↓限られた物資で少しでも子供たちを喜ばそうとリンゴでケーキも焼きました。

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↓同じく限られた材料で子供とパンケーキも作りました。

↓私の実家という場所での生活にうちの猫も中々なれずに昼間はこのドレッサーの下から姿を出しませんでした。

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こんな避難生活を続け、私たち家族はその後2週間ほどで我が家に戻った。

この2週間の間に家族を守ることは出来たと思う。子供も見る限り怖がったりなどは無かった。

 

あれから、1年。新しい道が出来。壊れた家屋もビルも解体が進み、そこには新しい建物も立ったりしている。でも、まだまだ多くの人々が仮設住宅に住んでそこを新しい生活の拠点としている。入居から2年間は家賃などは保証します。といわれて。

 

でも、あと1年でその生活はきっと元には戻れない。おそらく、、、。

 

私の家は一部損壊と言われ1円たりともどこからも保証はありませんでした。大きく亀裂が入った家の基礎も壁のひび割れも壊れた家具も割れた食器も誰にも保証はされない。別に保証されたいわけではないけど家屋調査の結果が出るまで不安な日々を過ごし、結果が出たら義援金も保証もなかった。

 

そして、それから半年後に私の病気が発覚した。『悪性リンパ腫』血液のガン。

 

家屋調査の結果、半壊以上なら医療費は期限はあるが全額免除される。でも、私の家は一部損壊。医療費の全額免除は無い。地震での金銭面でも気持ち的にも立ち直る前に病気が発覚し仕事も辞めざるを得なくなり収入は途絶えた。

生活保護を訴えたが実家等に資産がある場合はそれも出来ないと言われた。私たちの親にも生活はある。しかも年金暮らし。そんなこと出来るはずもない。なんと頼めるのだろか。私には出来なかった。

 

金を払え。金をくれ。と言ってる訳ではない。

 

私は、あまり物欲もないし。人が喜んでくれるのなら自分が裸になってでも自分の服を差し出す、そんな人間だと思っている。

 

でも、この先どうなるんだろう。家の壁のひびを見て、割れた家の基礎を見て、首のCVカテーテルの傷跡を見て、未来を考える、、、。

 

それでも生きなければいけない。家族の為に子供の為に自分を生んで育ててくれた親の為に。お前は大丈夫だと言ってくれてる多くの仲間の為に。

 

そして、私の為に。

 

生きなければならない。

 

 

今でも多くの熊本県の皆さんが苦しんでいます。

もう、あのけたたましく鳴る携帯電話から繰り返し鳴るの地震警報も聴きたくありません。

最近は報道されることもなくなりました。地震の規模は死者の数だけでは測れません。私たち熊本県民は2度に渡る最大震度7という地震を経験して、多くの人の命、財産、夢、希望、未来を失いました。

 

あの地震から一年が過ぎ、日常生活の中で不便を感じることもあまりなくなりました。

そして、笑う事も出来るようになりました。でも、あまりにも亡くしたものは多すぎます。通いなれた道、見慣れた町の風景、いつもそこにあるものが一瞬にして消え去りました。

 

お隣の飼い猫も2匹居る内の1匹が先日亡くなったと聞きました。地震の恐怖で怯え、餌を食べれなくなり、次第に衰弱していき亡くなったそうです。大きな揺れの恐怖で家から逃げ出し戻らないペットも多くいるようです。私が自宅に戻って一人片づけをしている早朝にも逃げたペットを探しているという人に何度も声をかけられました。

 

何かを失うという事。そこにある存在が無くなるという事。とても悲しい事です。

 

このblogを読んでいただいたみなさんにもう一度、その存在。いつもある存在に感謝して欲しいと思います。

 

 

最後に、熊本地震でなくなった多くのものに哀悼の意を示します。

                                                                                                                        orangelamp.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊本大地震 あの日起こった事。その③

2016年4月16日 本震が起きた日の夜が明けた。これは夢か?!現実なのか?!極度の緊張と恐怖の為に頭は上手く働かないまま。

いつもの様に東の阿蘇外輪山の上に朝日が顔を出す。

 

結局、この日もあの後寝れずに朝を迎えてしまった。

この回はシリーズものです。まだ読んでいただいてない方はこちらからをお勧めします。↓

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私以外の家族は家の中や車の中で睡眠をとっていた。私は冷たくなったコーヒーをすすりながら一人キャンプ用のチェアに座っていた。バーベキューコンロにくべた薪もすっかり炭となりその炭もわずかに燻るほどになっていた。

 

(いつの間にかこんなに明るくなっている、、、。)私はそう呟きながら温かいコーヒーを飲みたいと思い再び湯を沸かす。すっかり冷えてしまった体を温めるためだ。

あまりにも現実的じゃない状況に寒さもあまり感じなかったが朝日を浴びるうちに体も頭も覚醒していったのだろう。

 

私はその朝日に向かって頭を下げ手を合わせた。

 

『これ以上、被害が出ませんように。悲しみが増えませんように。』そう願った。

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↑その時の阿蘇方面の空です。自衛隊の飛行機と思われる飛行機が何度も飛んでいました。

 

朝日に願いをした後、車の中で寝ている妻と子供の姿を確認します。どうやら、二人と猫2匹仲良く寝てくれているようです。少しだけほっとしたのと温かいコーヒーを飲んで体があったまったのか急に睡魔が私を襲いこの後、しばらく眠ってしまいました。

 

『そんなところでずっと寝てたら風邪ひくよ。』姉のその声で目を覚まし私は車の中に寝ぼけ半分で乗り込みました。私が急に乗り込んできたことで椅子の下に隠れた猫の頭を撫でながらまた眠りました。

 

どれくらい眠っていたのかは分かりませんがキャッキャとはしゃぐ子供達の声で目が覚めました。私は車を降り、その子供たちに挨拶しました。もちろんうちの子もいました。子供は元気があって良いな。こんな時だって無邪気だ。少しうれしくなり家の中に入りました。家の中に入り、テレビのニュース映像を観ると阿蘇大橋崩落と出ていました。

 

『はっ!阿蘇大橋が崩落したの?!』私はあまりの驚きの余り大声を出してしましました。

 

『そうみたいよ。』そこに居たみんなが口をそろえて言いました。阿蘇大橋というのは熊本県の人なら知らない人が居ないって言っていいほどの長さ205mの大きな橋です。国道57号線かを熊本方面から大分方面に向かう途中の右手にありました。

 

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↑ウィキペディアより崩落前の阿蘇大橋

 

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↑その日の地元紙の夕刊記事より

 

その後も、熊本城の櫓などが崩落しているなどと次から次へと悲しいニュースが私の目と耳から入ってきました。熊本城も阿蘇大橋も私たち熊本の人にとっては大きな大きなシンボルです。それが揃いも揃って甚大な被害、崩落してしまったのです。

 

この衝撃で事の重大さに気付き、生きる希望を失った方もいらっしゃるかもしれません。

 

この後も次々に映し出される倒壊した家屋や避難所の映像。同じ熊本とは思えませんでした。本当に本当にどえらい事になったんだ。ここまでしてもまだまだ半分信じられ無い私は中々現実を受け止める事が出来ませんでした。

 

この日の記憶はこの辺からなくなっています。何をしてたか何を考えたか記憶力には自信がある私でも覚えておりません。それだけ、受け入れず辛かったのかもしれません。

 

次の日から子供の学校と私の昼間の仕事は休みになりました。とはいっても朝の新聞配達は本震の日しか休んでないので17日以降は新聞配達に行きました。とにかく必死で。

 

実家がある地域は震源地から離れていることもあり、水道以外のライフラインが止まるという事はありませんでした。しかし、私が住んでいる地域は電気も水道も止まってしまい開通には2週間以上かかりました。

 

朝の新聞配達が終われば自宅に戻り、悲しいほど散乱した家具、食器、その他もろもろの掃除をしました。もちろん余震も続いておりその度に外に逃げ出しました。

泣きながら毎日片付けました。悔しくて悔しくて。家族の思い出の品のコップやお皿子供が学校で作った工作物。私たち家族の10年分の品物が瓦礫と化していたからです。

 

命も助かりました。ケガもありませんでした。でも、大切な何かをなくした気がして、毎日泣きながら片付けました。悔しくて悔しくて。

 

私たち家族の避難生活は震災後、約2週間続きました。

ライフラインは水道以外、確保できていたのですが食料はどこを探してもありませんでした。スーパーマーケット、コンビニ何処に言ってもありませんでした。

 

商品棚も最初に水が無くなり、お茶が無くなり、炭酸飲料までもが無くなりました。

食料も弁当、おにぎりはまずなく。カップラーメン、おもち、そして、スナック菓子などの順番で無くなっていきました。食料も飲料水も仕方ない仕方ないという風な順番で購入されていったんだと思います。

 

本震後3日経った頃には食料は底をつきました。普段はあんなに食料が並んでるスーパーマーケットやコンビニも24時間営業のレストランも 閉店していました。テレビやインターネットで盛んに救援物資が届いたなどの情報はありましたが私が居た町には一切の救援物資は届きませんでした。

 

近所の町役場に足を運び飲み水や食料の情報を得ようと役場の担当者に訊いても

 

『私じゃわかりません。』の一点張りでした。

 

では、誰に聞けばいいのかどこに行けばいいのか訊いても

 

『私じゃわかりません。』の一点張りでした。

 

この担当者という方にも家族があり仕事上ここにいる訳で責任感が無い訳じゃないと思いましたがもしもの場合のマニュアルや危機管理というものにはいささか疑問と不信感を持たずにはいられませんでした。私は怒号が飛び交う役場を後にし、この後、数箇所の学校や役場を廻りました。でも結果はどこも

 

『私じゃわかりません。』の一点張りでした。

 

もう諦めました。誰にも頼れない。国にも県にも市にも町にも。救援や支援が間に合わないのも分かります。でも、悔しかったです。本当に。

学校や役場、社会保健センターなどに行けば救援物資がある。これは間違った考えなんだと気づきました。

 

自分の身や家族の身は結局自分たちで守らないといけないんだそう思いました。

どうすれば良いか考えた結果。私は車で隣の福岡県に走りました。高速道路のインターチェンジに向かう対向車線の車は県外ナンバーばっかり。大阪、福岡、山口、広島、神戸、中には品川、横浜ナンバーの車までありました。

 

救援は間違いなく届いている。日本全国から人も物資も届いている確実に。もう少しの辛抱だ。私は全国から届いた人、その人たちが運転している車の中にある沢山の物資を見て泣きながら運転しました。これが人助けなんだ。苦しんでいる人が居る。仕事や悩み、不安もある中、日本中の人が熊本に来てくれている。ありがたい。ほんとうにありがたい。

 

その後、高速に乗り、太宰府インターチェンジで高速道路を降り、一番近いガソリンスタンドでガソリンを並々と入れて近くの食堂で食事をしました。久しぶりに見た温かい食事。しかし、胃があまり受けつけませんでした。

食堂を出ると、すぐに銀行に寄り、出来るだけのお金をATMで引き出し、スーパーマーケットに向かいました。

 

自動ドアから中に入るとそこには日常がありました。

 

普通に食料品が並んでいたのです。当たり前ですが棚いっぱいに。私はまた涙を流しました。わずか車で1時間走ったこの距離に日常がある。こんなにいっぱいの食料品。買い物を楽しむお客たち、、、。

 

私は次々に流れ出す涙を服の袖で乱暴に拭い去り、急いで買い物をしました。考えられるありとあらゆる品を。車に詰めるだけの物資を詰め込みました。食料品、電池やろうそく等の物資、生理用品、おむつ、トイレットぺーパーにティッシュペーパー、薬品や消毒液、ペットフードなども大量に買いました。

 

私の家族にはおむつ等は必要ありませんでしたが近所や友人宅に届けるためにそれこそ、何度も車とスーパーマーケットを往復して何度も買いました。

 

恐らく定員さんもそこに居たお客さんも驚いたと思います。目は血走って、涙ぐみながらお風呂にも入れず、無精髭ぼうぼうの私の姿を見て。実際に何この人!というような怪訝そうな表情で眉をひそめられたこともありました。でも、そんなことは気にしませんでした。私には早く戻ってこの物資を一刻も早く届けたいという思いがありましたから。

 

この後、私はこの救援物資を確実に届けるために近くの公園の駐車場で1時間ほど仮眠をとり一路熊本を目指しました。家族と友人たちが住む熊本へ。

 

このblogを書いたのはこの熊本地震の本震があった2016年4月16日から丁度、1年が経った2017年4月16日です。前回の前震によりダメージを受けていた大地、建物や橋、道路などに壊滅的な被害が出ました。この被害により多くの人も無くなりました。

この場を借りてご冥福をお祈り申し上げます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。

熊本大地震 あの日起こった事。その②

震度7 熊本市を襲った大規模な地震。こんな日でも仕事を休めない自分を呪った。

次々に起こる予測も出来なかった事態。こんな時どうすれば良かったのか?!

シリーズでお送りする『熊本地震』その②

 

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一夜明けて職場へと車を走られる私......。

 

 

家族の事、職場の事、友人たちや知り合いの安否など何の確認も出来ないままに私は職場へと向かった。しかし、車の交通量はまばらだが道路の舗装にあちらこちら亀裂があったり、川や道に架かる橋に20~30センチほどの段差が出来たりと通行止めになっている場所も少なくなかった。

 

私は何とか迂回を繰り返し職場の駐車場へと向かった。いつもは10分足らずで到着出来る場所へこの日は30分以上もかかってしまった。

 

職場の駐車場へ到着すると他の同僚も何人か出勤していた。他の社員の安否確認やその家族の案を確認し終えると一緒に職場へ向かった。こんな時は駐車場から職場への移動も一人より数人いる方が心強かった。

 

職場へ到着すると先に来ていた社員が電話の対応に追われていた。電話が終わるとすぐに次の電話がかかってくる。それのひっきりなしに。私も慌てて対応に追われた。

この日は全員出勤できている訳でもなく、被害が大きかった社員や小さな子供やご老人がいる世帯の社員は休んでいた。私も休めばよかったなぁと少しばかり後悔した。

 

この後の業務内容を上司からこの日出勤できた社員全員に伝えられた。主な内容は地震で倒れたり壊れた物の復帰作業とた営業所への応援派遣だった。

 

私は復帰作業を早々に済ませ、同僚と多店舗へと向かった。移動の車内では各々昨夜の地震の時に何をしていてどう動いたかなどを熱く語り合った。

話をまとめると『あまりにも突然の事で動こうにも動けなかった。』という結論に落ち着いた。

 

 『こんな日に仕事しているのって日本人位じゃないかなぁ。』これは決して差別的な言葉ではなく勤勉、協調を幼いころから教わってきた自分への戒めの言葉だった。

『そうだね。』車内のみんなが同意してくれ、車内は一気に静かになった。私もそうだが離れている家族や知人の安否を気にしての事だろう。

 

なんとか、その日の作業が終わる頃、職場の年配の同僚がこう言って来た。

『私の古くからの友人の話によると今夜、もっと大きな地震が来るらしい。信じるかどうかは〇〇さんに任せるけど。その友人は私にそう言う嘘は付かない立派な友人だから。』

 

『そうなんですか、、、。』私はこう言ってそれ以上は何も言えなかった。

家に戻ってからも先ほどの言葉が頭から離れなかった。でも、その同僚も普段は冗談も言わないまじめな方なので信ぴょう性があった。悩みに悩んだ私は。

 

(自分が臆病なせいで家族が助かればいいか。)と今晩は車の中で車中泊することに決めた。

 

夕食後に妻に話をした。妻は了承してくれ家族みんなで車の中に必要最低限のものと布団を運ぶ。猫を2匹飼っているのでその対処をどうしようかと話したが、もしもの場合も体が小さい分下敷きになる危険はまだ少ないと判断し家の中に残していくことにした。

 

これは本当に苦渋の決断でした。家族なのに。自分は冷たい人間だなと何度も思い中々眠りにつくことが出来ませんでした。でも、この日一睡もしていなかった私はウトウトし始めます。そして、まだ眠りが浅いうちの。

 

ゴゴゴゴゴゴォォぉォォオォォオ~~~!と前回と同じ地響きがしました。

その直後に大きな揺れ。車内の私は揺れの中、『本当に来た!』と言いました。

 

2016年4月16日午前1時25分 本震です。

 

前回の地震の揺れも人生で経験したことのない揺れでしたが今回のものは明らかに前回より多きいと直後に分かりました。車のサスペンションのせいかもとも思いましたが。

 

大きく揺れる車窓からの見える外の景色はパニック映画さながらのものでした。

大きな揺れとともに我が家は大きく揺れ動き、隣近所の屋根から大量の瓦が落ち、ブロック塀が一気に倒れます。

 

そして、一瞬の閃光と共に火花が電線を流れました。一気に暗闇に包まれた外の世界。

急いで車のエンジンをかけテレビに情報を求めます。同じくスマホでも。

 

私と妻の携帯電話から『キュイキュイキュイ!地震です!キュイキュイキュイ!地震です!』と繰り返し地震警報が鳴ります。

 

直ぐに津波警報が出ました。私の家から海岸線までは2km以上はありますが東日本大震災の時映像が浮かび上がり、恐怖感は一気に加速しました。

 

『逃げよう』私は妻に言いました。妻は黙ってうなずきまだ寝ている子供を抱き寄せました。私は『猫連れて来る』と二人に言い残し自宅へと向かいました。玄関のかぎを開け中に入ります。玄関の靴箱は倒れ靴が散乱しています。

携帯電話のライトを頼りに猫を探します。昨日片付けたはずの全ての物が昨日よりも酷い状態で散乱していました。

 

ガラガラガラガラガラ!

 

再び、大きな揺れです。私はあっ!これは死ぬな。と思いました。一旦逃げたけど家に戻って死ぬパターンだって思いました。本気で思いました。

 

『ウァァァ~!』と声を上げながら外にいったん退避します。大きな余震は何度もあり、これを何度か繰り返しました。

 

もういったれ!と津波が迫る中、埒が明かない状況に思い切って家の中に入り猫を探します。いつも猫と接しているために猫が急に人が来た時などに何処に隠れるか把握していたので大体の目途は付いています。まずは玄関に用意しておいた猫のケースを手に取り臆病な雄猫から捕獲します。携帯の明かりは頼りなく手探りで雄猫が良そうな場所へ手を伸ばします。

 

私の手が雄猫の体を確認した瞬間(にゃぁ~)雄猫が低い鳴き声発しました。

私は『ごめんねごめんね』と何回も言いながら猫をケースに入れて玄関にそれを置きました。揺れはまだ続く中、今度は雌猫の捕獲に向かいます。

雌猫はおそらく寝室に居ます。暗がりの中、名前を繰り返し呼びました。

 

(にゃぁ~)雄猫の声とは違う甲高い鳴き声が寝室からします。怯えています。

 

私は寝室に入り、すぐさま猫を抱えたまま、走って玄関の雄猫のケースを手に取り車へと走りました。

 

生きてる何とか。全身に汗をびっしょりにかいていました。車の近くへ来ると妻が後部座席のスライドドアを開けてくれ、中にケースを入れます。とその瞬間。

 

『猫の餌は!』妻が言います。『そうよ餌はパパ』子供が続きます。

 

私はびっくりして『それいる?!』と言います。

 

『いるよ~』二人が声を揃えて言いました。いつもの多数決です。

 

『人の気も知らないで!』私は少し怒った口調で言い残し再び自宅へ。

 

そして、また大きな揺れ。今度は餌のために死ぬパターンか(;´Д`)とか考えながら、急いで餌を手に取り車に戻ります。ここまでの時間は5分もかかっていないと思いますが私にとっては死ぬ思いを何度もした長い長い時間でした。

 

急いで運転席に飛び乗り車を発進させます。どこに行こうか?!とりあえず高台を目指します。しかし、道路は倒れたブロック塀や瓦が散乱している状態です。でも、アウトドア好きな我が家の車はそんなのものともしませんでした。

 

少し大通りに出て橋を目指します。近所は川に囲まれていてどこの良きにしても必ず橋を渡らなければなりません。しかしその橋の前が大渋滞。対面通行の道が橋の方向に向けて3台も4台も並列して車が列を成しています。

 

『これは駄目だ!』私は踵を返し別の方向へと向かいました。結果は同じ。大渋滞です。信号も停電のために消え、パニック映画で都市部から非難する車で溢れてる場面そのものです。怒号やクラクションが頻繁に聞こえます。

 

(終わったかもしれない。)本気でそう思いました。渋滞の中、後ろを振り返ると不安げな妻と子供。

 

(俺が諦めるわけには行けない。何とか二人だけでも死なせない。)必死に考えます。どうにか手立てはないか。天の母にも祈ります。助けてと。

 

そうこうしている時にテレビに津波到着の一報が。津波の高さ数十センチ。

↓この道が大渋滞してたんです!普段は渋滞なんてした事無いのに。

 

 

正直ほっとしました。ありがとう。母さん。そう言ってこれからの避難先を頭の中で模索しました。妻とも話し合い海岸線からは離れたいという考えの元、とりあえず私の実家に避難することにしました。

 

その道中も車で溢れる道。

 

毛布で身をくるんだ人たちとも沢山すれ違いました。子供を抱える若い夫婦。犬を抱いた年配の人々。泣きながら手を引っ張られて走る子供たち。車に乗せてあげようかと何度も思いましたがそれこそパニックの原因になると思い車のロックを確認し、過ぎ去りました。何もできない。今の自分に出来る事はこの二人の命を確実に守る事。

 

悔しい思い、不甲斐ない思いを握りつぶしながら道路の状況と自分が知っている裏道を駆使しながら目的地を目指します。橋が落ちていたり、マンホールが盛り上がってたり、ビルが倒れていたり、昨日の地震直後の状況とは明らかに違う街並み。

 

途中子供がと家に行きたいと言いましたが一人で行かせるわけにもいかず、コンビニを探しますが何処も鍵がかかっており入れませんでした。仕方なく、近所の公共施設を目指します。

 

そこに到着し車から降りると子供が急に吐きます。その姿を見ると悲しくなり、何度も何度も大丈夫?大丈夫?と訊きました。子供も何とか落ち着いたのでトイレへ。公共施設の中でおにぎりと水をもらいました。車に再び乗りこみ走らせます。

 

途中の公園や大きな駐車場は人だかりが出来ており緊急的な非難所となっていました。

歩道で寝ている人や何かの明かりの前で座り込んでいる人も沢山見ました。

 

ようやく、実家にたどり着き父たちと再会を果たします。ここまで来れば、一応の安心です。父たちは家の外に出ており。懐中電灯の明かりを頼りにラジオを聴いていました。

 

私は車の中からキャンプ道具を取り出し、バーベキューのコンロに薪をくべ火を熾しました。四月とはいえまだまだ冷え込んでいました。妻と姉が家の中か毛布を持ってきてくれキャンプ用のチェアに座りながら、湯を沸かしコーヒーを飲みました。

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『どうなるんだろう?』父にコーヒーをすすりながら言いました。

 

『分からん。』父はため息交じりに首を振りそう言ってコーヒーをゴクリと飲みました。

 

子供と妻を車の中で寝かし、この日は夜が明けるまで父と語り明かしました、、、。

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↑実家の柴犬も不安げです。

 

考えもしなかった2度目の地震。同僚の助言のおかげで何とかけがもなく無事に実家にたどり着いた私たち。しかしここからが大変な生活の幕開けとなりました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

熊本大地震 あの日起こった事。その①

2016年21時26分熊本県熊本市を震源とする大地震が起こった。

マグニチュード6.5

最大震度7

大地震を映像で知っていた私もその大きな揺れで大地震の恐怖を感じた。

今なお一向に進まない復興。私はこの地震で何を失い。何を得たのか。

 

ごく普通のごく平凡な日常。それが一瞬で消え去る。それほどの大きな揺れでした。

 

 

この日は仕事も早々に終わり夕食の準備に取り掛かりました。子供が苦手なピーマン。それを使って作ったピーマンの肉詰め。食べれないものがやり方次第で食べれるようになる。工夫次第で。そんなことに喜びを感じつつ作っていたことを覚えています。

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夕食作りも終え、私が作った料理を家族と囲んで一日あったことを報告しながら笑ったり、自分の考えを言ったり、そんなごく普通のどこにでもあるような家族とのひと時でした。その後、TVを観たり、お風呂に入ったり、各々が自分の時間を有意義に使い時を過ごしました。

 

『じゃあ、もう寝るね。』夕食の食器を洗い終え次の日も早朝から仕事がある私は子供と妻にそう言いながら寝室へと向かいました。

明日も早いなぁ~嫌だなぁ~といつもの様に。猫と一緒に布団に入ったことでしょう。

 

ゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォォォ!

 

ドーン!ガラガラガラガラガラ!

 

!!!!!!!!

 

(何だ?!何?!)

 

『わあああああああぁぁぁぁ~~~!』

 

熟睡をしてた私は突然の下から突き上げるような衝撃と大きな横揺れに跳ね起き大声で叫びました。横を見たら寝ているはずの家族の姿がありません。

 

二人はどこに行ったんだ!!!!

 

これが最初に頭に浮かんだことでした。

 

私はまだ大きな横揺れが続く中、家族を探しました。その途中色んなものが落ちてきます。

自分の体を支える事も出来ずに柱にしがみつき二人の名前を大声で叫びました。

 

『ここにいるよ!』妻の声が隣の部屋から聞こえました。

 

私は壁を頼りながら大揺れの中進みます。部屋の扉を開けると妻と子供の姿がありました。

妻は子供の背中に手をやり『大丈夫。大丈夫よぉ~』と背中をさすってます。

子供はテーブルの下に隠れ必死に顔を伏せていました。

 

『良かった。大丈夫だったね。』そういう事が精いっぱいの私。

 

『うん。何とか大丈夫。』妻は子供の背中をさすりながらかすかに笑っています。

『パパ~揺れたね!』子供も少し興奮しています。

 

私は小脇に枕を抱えているのに冷静で親の勤めもしっかりとこなしていた妻。

すげぇーなってこの時、単純に思いました。

 

直ぐに時計を見たら21時26分。真夜中だと思ってた私。まだ、就寝して30分ほどしか経ってませんでした。そりゃそうか。二人が居なくて当然か。そう思い深く息を吐きました。

 

すぐさまテレビをNHKに変え、地震の速報を待ちました。

ゴゴゴゴゴオゴゴゴゴゴゴオオ~!!!すぐにまた揺れます。

次々にタンスやテレビが載っているサイドボードの上から物が落ちます。

『外に出ようか?!』私が言うと。妻は答えずテレビを観ていました。

 

震源地熊本県熊本市東部 マグニチュード6.5

 

どおりで飛び起きるわけです。もう寝れるはずもありません。停電もなく、私は色んな媒体で情報を集めました。TV・ラジオ・インターネット。どれもこれも地震の初期の情報で溢れかえっていました。

 

『まだ、あんまり詳しい情報はないね。』『そりゃそうでしょ。』『逃げた方が良いかな?』『まだ、情報が少なすぎて動こうにも動けないね。』『部屋もこの状態じゃ荷物の準備も出来ないし』そんな事を余震が続く中、話しました。子供は妻の胸に抱かれ、寝ていました。

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どうなるんだろう。大きな不安を抱えつつ。眠ることも出来ず、どこから手を付けていいのかも分からない家の中を仕方なく、ある程度片付けました。

 

その後、妻と子供を家に残し、後ろ髪を思いっきりひかれる思いで朝の仕事に行きます。妻も子供も布団で寝ていました。私はこの時、昼間の仕事と朝の新聞配達を掛け持ちしており、いつもよりずいぶん早い出勤をしました。いつもの道いつもの風景。

道もそんなに遜色なく通ることが出来ました。新聞の販売所の明かりに少しばかり安堵をします。

 

『おはよう!』いつもは愛想も何もない同僚の年配男性が私に気付き挨拶をしてくれました。

『おはようございます。』私はいつも通りのあいさつをしました。

『大丈夫だったね?!』この男性が訊いてきました。

『大丈夫でした。何とか。』もう3か月位毎朝、顔を見合わせているのに初めての会話です。

よく見るといつもは私よりもっと遅い同僚など結構な人が居ました。

(みんな不安なんだな。)そう思いました。

いつもは3時30分位に来る朝刊がまだ販売店に届きません。私たちはいつもより1時間以上遅く届いた新聞を店内へと運び、その運び込んだ新聞の一面を凝視しました。

 

↓その時見たの地元紙の一面です。

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そこにいた全員が黙り込み誰も口を開くものは居ませんでした。しばらくすると私の中でこの情報をお客様が待ってる。一刻も早く届けねばと思い大急ぎでバイクに積み込みました。こんなに大きな使命感を持っての配達は初めてです。

 

大急ぎで通いなれたルートをバイクで新聞を配り始めました。いつもはまだまだ暗い町並みも家もこの日は電気が点いており起きていた方が多かったように思います。中には外に出ている方も居ました。

 

『おはようございます。大丈夫でしたか?』私は玄関先で不安げな表情のお客様に声をかけました。いつもは当然寝ていらっしゃる時間なんですがこの日初めてお会いしました。

 

『うちの飼い犬が逃げて帰ってこないのよ。』そのお客様は不安な中、玄関先で飼い犬の帰りを待っているようでした。

 

『犬も怖い思いしたのでしょう。しばらくして落ち着いて帰ってきたらいいですね。お怪我などは無かったですか?』

 

『怪我はないですけど。怖くて怖くて家の中には居られないの。』

 

『そうですよね。まだ揺れは続いてるので外の方が安全かもしれませんね。でも、寒いので温かくしてくださいね。』

 

『ありがとう。』そんな会話を何人ものお客様と何度も繰り返し次へまた次へと新聞を配りました。途中、液状化現象で道路が冠水しおり思いっきり転びそうになったり、曲がり角曲がったらブロック塀が倒れててぶつかりそうになりました。何度も何度も。私はバイクで配ることに恐怖を覚え、小脇に抱え走って配ることにしました。

 

本当に怖かった。

 

配ってるときは全く寝れずにハイになっていましたし、強い使命感もあったのでとにかく必死でしたが配り終えた後はどっと疲れ、くたくたになりしばらく立ち上がる事さえできませんでした。下り終えたのはいつもより1時間以上も多く時間がかかってしまいました。何とか立ち上がり家に向かいます。私が家を出ている間も小さな揺れはありましたが大きな揺れは無かったので大丈夫だとは思いましたがとにかく急ぎました。

 

明るくなるにつれ、いかに地震が大きかったかを感じざるをえませんでした。販売所に向かう間は暗くて見えなかっただけでその傷跡は甚大でした。倒れたブロック塀、割れたガラス。落ちた瓦で道は瓦礫だらけでした。中には倒壊しかけた家まで。朝日の中虚ろな表情でふらふら歩く人とも何人かすれ違いました。

 

本当に大変になことになったぞ。

 

家に帰ると妻と子供がテレビを観ていました。どこもかしこも地震のニュース当たり前ですが。色んな情報が飛び交っていました。良くない情報ばかりでしたが。この日のこの事をどうするか妻と話し合い妻は子供と家に残るという事で私は仕方なく仕事に向かいました。

 

明るくなっても、いつもより車はまばら。でも、あちらこちらに瓦礫が落ちています。

私の昼間の仕事は自動車関係の仕事でした。みんな大丈夫だろうか。まだ、この仕事を始めて2週間ほどだった私。それでも仲間は仲間です。みんな無事であってくれと願いながら職場へと向かいました、、、。

 

突然襲った大地震。ご存知の通り、多くの尊い命、財産、夢、希望が失われました。

あれから一年経ち、一見普通に生活できてはいますがまだまだ、完全に元の生活に戻れたとは言えません。

今回から数回に分けて熊本大地震についてblogを書いていきたいと思います。

 

この地震で喪った多くのものにお悔やみ申し上げます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。