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風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

人生で初めての入院生活。自分、家族、仕事、人生とは⁉入院生活で感じた事や闘病記録、家族との過ごし方、趣味や特技の事を綴っていきます。

『はじめてのたいいん その④』

家族の事

突然の『悪性リンパ腫』告知から、約1か月。風邪だと思って病院に。

家を出てから、2か月。ようやく家に帰れる日が来た。2か月ぶりに帰る我が家。楽しいことだけが待ってるはずだった。でも、そこには新たな苦悩が待ち構えていた。 その④

 

前回からの続きになります。まだ、お読みになっていない方は↓をお読みになってからをお勧めします。

その①

『はじめてのたいいん その①』 - 風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

 

その②

『はじめてのたいいん  その②』 - 風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

 

その③ 

『はじめてのたいいん その③』 - 風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

 

初めての退院をし、2か月ぶりに家族そろっての夕食を食べて、子供とのお風呂。

久しぶりの我が子と二人きりの世界。不安はいくつかあったが、子供と時を過ごすことでいつしかそれも忘れようとしていた。そんな時に、また、起きてしまった異変。

次々に起きる異変。次は何が起こってしまったのか?!

 

『〇〇、ちょっと、ママ呼んできて。』

 

『なんで?』子供は訊いてきたが、努めて冷静に、

 

『いいから呼んで。』子供は、雰囲気を悟ったらしく、

 

『ママー』と妻を呼びに行った。

 

妻が来るまで私は、冷静に自分の置かれている状況をよく考え、出来るだけ冷静に行動しようと心掛けた。

 

『何、何どうした?!』洗い物をしていた妻は、手をタオルで拭きながらやってきてくれた。

 

『大変なことが起きた。』と静かに言った。

 

『どうしたの?!』妻が緊張した面持ちで聞き直す。

 

『・・・。出れない。』私は、また静かに言った。

 

『どっから?』と妻 『ここから。(笑)』と私。

 

そうなんです。異変とは、朝と一緒で、太もも筋肉プルプルだったんです。 

 

わはははははは・・・・・風呂場から家族3人の笑い声が近所中に響き渡ったことでしょう。妻は、笑いながら、両手を差出し、力いっぱい引き上げてくれました。

子供も一生懸命『うんしょうんしょ』と言いながら私の体をママと一緒に引き上げてくれました。

『ありがとう。』私は、笑いながら言いました。妻と子供も、また、一緒に笑いました。笑い事ではないかもしれませんが、この時はなぜか、不安や恐怖ではなく、笑いが出てしまいました。家族も同じ心境だったようです。この時、本当にここに帰って来たんだなって思えました。

 

次の日は、お昼に実家の家族と焼き肉に行き、たらふく肉をご馳走になり、母のお墓にお墓参りと報告に行きました。このお墓参りに行った時に私は、やっと母に謝ることが出来ました。

 

長かった母の闘病生活。血液製剤でB型肝炎を発症し、そのままエスカレーターに乗るように肝硬変→肝臓がんへ。一時は、治療のかいもあり退院できました。母も私たち家族も油断したのか、安心したのか分かりませんが、2年後に再発症。

 

その時、医師から告げられたのは、『余命3か月。』もう、私たちの力でも、その時の医学の力でも治せませんでした。これから、母が旅立つその時まで、どうしたらいいものか?!

 

家族で話し合った結果が、治療でした。新しい色んな治療を試しました。でも駄目でした。最後まで、家族を思い、治療がつらいのに我慢して我慢して、それも報われず、天国へ旅立っていった母。

 

『頑張ったね。ごめんね。』まだかすかに残る母親のぬくもりを感じながら、私は、何十年ぶりかに母の髪をなでました。子供の頃は、あんなに好きだった母。子供から、少年、成年へと成長してくほどに、精神的にも経済的にも、母から独立して、いつかは母の為に何かしてあげようと思ってましたが、結局、最後の温泉旅行も病状が急変し、叶いませんでした。

 

この時も、何で今なの?!何で母なのと?!と、もしいるならば、神様を恨みました。

 

わたしは、この病気になった時、何で自分がこんな病気になったのかと、考えました。神様は、超えられない試練は与えられないというからです。でも、そんな理由なんてないのです。考えても結局は、結果論で、こじ付けに過ぎないと思います。

 そして、ある時に気づいたのです。何でなったのかという『理由』では、無くて、これは、贖罪(しょくざい)なんだと。

 

贖罪とは、犠牲や代償を捧げて罪をあがなう事。 

 

なるほど。と、思いました。母が旅立つ前の日、ベッド脇に座っていた私に向かって母は、言いました。

 

『お母さんが眠るまで、傍にいて。目が覚めた時に居なくてもいいから。お願い。』

 

私は、『もう帰るよ。また来るから。』と言いました。

 

『そんなこと言わないで、寂しいから。』今まで母の口から、こんなこと言われたこともありませんでした。これが、最後と分かっていればと何度も何度も後悔しましたが、私は、母を置いて、『また来るから。』と言い残し、病室を後にしたのでした。

 

私のこの時の『また』は、安心感の塊でした。母は、いつもいてくれる。私を待ってていてくれる。常にそうでしたし、常に待ってくれていましたから。

 

この日が明けての夜中、午前2時45分突然の電話で、私は、母の死を知りました。慌てて実家から飛び出し、車で行けばいいものを走って病院に向かいました。

 

『ごめんね。ごめんね。』と何度も声に出し泣きながら走りました。

 

病室に入って、その母の姿は、いつものように僕を待っててくれました。でも、もう二度とその目は明くことはなく、しっかりと私を見据えてくれることもありませんでした。

 

『ごめんね。母さん、ありがとう。』最後、葬儀場で、母の棺の中に母が大好きだったちゃんぽんを入れて、母は、天国へ旅立って行きました。

 

私は、これが最後かと思ったら、突然、涙があふれ葬儀場で嗚咽を漏らし、泣いてしまいました。それを見た、妻、子供、姉も泣き出し、母を見送りました。

 

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あれから5年。

 

あの時の母の苦しみ、母の気持ち、家族の思い。そうしたものを、私自身にあらためて気づかせるために、私は、『悪性リンパ腫』になったんだと思いました。あの時、叶えられなかった母の願い。それを身をもって体感しろと。そういう事かと思いました。

 

結局は、こじ付けなのかもしれません。でも、この母が通った道。その道を息子が通るという事で、長年、申し訳ないと思っていた積年の思いが救われる気がするんです。

最後まで、母は、私を救ってくれたんだなって。

 

『ごめんね。母さん。ありがとう。俺頑張るよ。』そう心の中で、言いながら墓前で手を合わせました。

 

『パパ、お祈り長いよ』子供の一言で、私は、目を開け母の墓標を見据え、頭を垂れました。『ごめんごめん。』と子供の手を取り、母のお墓を後にしました。

 

この数日後、病院に戻り、辛い戦いが始まります。でも、私は、一人じゃありません。いつもそばには、愛する家族がいてくれて。目を閉じれば母がいてくれます。誰よりも力強い味方です。これなら、闘えそうだ。ほんの数日間でしたが、私は、十分英気を養い次に闘いへと向かうのでした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。