make the style. オレンジランプのブログ

私、オレンジランプが自由気ままに過ごす日常。大好きなもの作り。料理。家具製作。猫。アウトドア。子育て論。などなど、気ままに発信していきます。

熊本大地震 あの日起こった事。最終回

救援物資を車に乗せて一路熊本に戻る私。全国から続々と集結する救援物資を載せてるであろう車の列が続く。ありがたい。

こんなにも人の温かみを感じたことがあっただろうか、、、。

 

何処までも続きそうな熊本への車列に思わず涙があふれる。

 

この回のblogはシリーズになっております。まだ読んでいただけてない方はこちらから↓

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 ようやく熊本までの車列も解消され実家へとたどり着く。時刻はもう遅い時間。

体はクタクタだけども友人や知人に連絡を取った。

実家に避難している者、避難所に避難している者、自宅に要る者、連絡がつかない者。

様々居た。

連絡が付いた者はみんな変に興奮しているように話し、その話は深夜まで続いた。

きっと皆、不安なんだろう。私もそうだ。

皆、連絡が付いた安心感と不安感で話の内容は多方面に渡った。

家族の事、地震の被害、他の者の安否。そして、これからの事の事だ。

 

これからの事なんかは私はとてもじゃないが考える余裕など無かった。家の片づけ、子供の学校の事、仕事、全て今は出来る状況ではなかった。

 

それもその筈で余震は度々ある。夜中にも何度も揺れ、その度に起こされた。

起きて、この地震は外に逃げた方がいい大きさなのか、それとも、このまま目を閉じて眠ってもいい地震なのか判断しなければならなかった。これは、最初の地震発生から1か月以上過ぎても続いた。

 

そして、みんな口々に言った。まさかこんな事になろうとは。私もそう思った。災害はいつも突然で特に地震なんてものはどれだけ研究が進んでも発生時間の特定なんて不可能だと思う。この本震の時だってどこかの大学の専門家はニュース番組の中で余震の4月14日から1週間以内に大きな地震が起きる確率は30%と言っていた。

 

本震が来る前日の夜に、私は車に物を積み込んでいる時(30%か、、、じゃあ、来ないかなって思っていた。)でも、その30%が来てしまったのだ。

 

何人かの友人と話をして、私は救援物資と共にまだ寒いこの季節に体を温めてもらおうと豚汁とミネストローネ、おにぎりとコーヒーを大量に作った。それを家中や空いてるお店などで容器を買い込み詰め込んだ。少しでも手助けになればいいと。少しでも元気を出してほしいという気持ちを込めて。

 

そして、ほとんど寝ることもまだ薄暗い中、車を走らせてなく友人たちが居る避難所に向かった。

 

何処の避難所もいっぱいで足の踏み場などはほとんどなく、プライバシーなど無かった。男、女、赤ん坊、子供、年寄り。全てが一緒に居て一緒に寝ていた。

 

私が廻った避難所のひとつで、中年男性が救援物資のおにぎりを配る小学生くらいの子供に他の味をくれだとか、一個じゃ足りないとか詰め寄っていた。この中年男性が普段どんな生活を送っているかは知らないが緊急時にこうなってしまったのか、もともとこんな人なのかどちらにせよ悲しくなった。

 

友人やその家族に作ってきた豚汁などを渡すと涙を流して喜んでくれた。温かい料理。

普段は当たり前に食べれる料理。それが今は満足に食べることが出来ない。この今の日本でそんなことが起こっている現実に本当に悲しくなった。

 

数か所の避難所を回って分かったことは、街中に行けば行くほど救援物資は多く支給されているようだった。私が居る実家は熊本市内の中心部から同じ熊本市内から30分車で走った場所。そこまでは全く救援物資がこの時点では届いていなかった。

 

後々のニュースなどで大規模な災害が起きた際にこの時点でほとんどの自治体が新旧災害時のマニュアルが定まっていなかったり、そのマニュアルの内容を把握されてなかったりという事が分かった。このニュースを見たときにこの日本で私が生きている間に何度も大きな地震が起きたのに。何で!?何で?!という大きな憤りを覚えた。

 

日頃の業務が忙しいのも大変なのも分かる。でもこのような時に国民、道民、都民、府民県民、市民、町民、村民がどこを頼るのか。どこに向かって救援を待つのか。おそらく自治体なのである。緊急時にはこのような方法に従ってくださいなどと書かれた掲示物や避難経路を示した会報などを目にしたことがある。でも、どれも機能していなかったような気がする。

 

皆が大変。皆が被害者。それも十分理解している。でも、どこに行っても。私の家には救援物資は届かなかった。

 

私とその近所の家族はお互いが手に入る食糧や飲み物を分け合いこの状況を乗り切ることが出来た。移動も出来たし、支えあう事が出来た。

でもそれも出来ない人たちは、いったいどうしてこの状況を乗り越えることが出来たのだろう。

 

↓水の救援物資を求めて子供も一緒に運んでくれました。

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↓限られた物資で少しでも子供たちを喜ばそうとリンゴでケーキも焼きました。

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↓同じく限られた材料で子供とパンケーキも作りました。

↓私の実家という場所での生活にうちの猫も中々なれずに昼間はこのドレッサーの下から姿を出しませんでした。

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こんな避難生活を続け、私たち家族はその後2週間ほどで我が家に戻った。

この2週間の間に家族を守ることは出来たと思う。子供も見る限り怖がったりなどは無かった。

 

あれから、1年。新しい道が出来。壊れた家屋もビルも解体が進み、そこには新しい建物も立ったりしている。でも、まだまだ多くの人々が仮設住宅に住んでそこを新しい生活の拠点としている。入居から2年間は家賃などは保証します。といわれて。

 

でも、あと1年でその生活はきっと元には戻れない。おそらく、、、。

 

私の家は一部損壊と言われ1円たりともどこからも保証はありませんでした。大きく亀裂が入った家の基礎も壁のひび割れも壊れた家具も割れた食器も誰にも保証はされない。別に保証されたいわけではないけど家屋調査の結果が出るまで不安な日々を過ごし、結果が出たら義援金も保証もなかった。

 

そして、それから半年後に私の病気が発覚した。『悪性リンパ腫』血液のガン。

 

家屋調査の結果、半壊以上なら医療費は期限はあるが全額免除される。でも、私の家は一部損壊。医療費の全額免除は無い。地震での金銭面でも気持ち的にも立ち直る前に病気が発覚し仕事も辞めざるを得なくなり収入は途絶えた。

生活保護を訴えたが実家等に資産がある場合はそれも出来ないと言われた。私たちの親にも生活はある。しかも年金暮らし。そんなこと出来るはずもない。なんと頼めるのだろか。私には出来なかった。

 

金を払え。金をくれ。と言ってる訳ではない。

 

私は、あまり物欲もないし。人が喜んでくれるのなら自分が裸になってでも自分の服を差し出す、そんな人間だと思っている。

 

でも、この先どうなるんだろう。家の壁のひびを見て、割れた家の基礎を見て、首のCVカテーテルの傷跡を見て、未来を考える、、、。

 

それでも生きなければいけない。家族の為に子供の為に自分を生んで育ててくれた親の為に。お前は大丈夫だと言ってくれてる多くの仲間の為に。

 

そして、私の為に。

 

生きなければならない。

 

 

今でも多くの熊本県の皆さんが苦しんでいます。

もう、あのけたたましく鳴る携帯電話から繰り返し鳴るの地震警報も聴きたくありません。

最近は報道されることもなくなりました。地震の規模は死者の数だけでは測れません。私たち熊本県民は2度に渡る最大震度7という地震を経験して、多くの人の命、財産、夢、希望、未来を失いました。

 

あの地震から一年が過ぎ、日常生活の中で不便を感じることもあまりなくなりました。

そして、笑う事も出来るようになりました。でも、あまりにも亡くしたものは多すぎます。通いなれた道、見慣れた町の風景、いつもそこにあるものが一瞬にして消え去りました。

 

お隣の飼い猫も2匹居る内の1匹が先日亡くなったと聞きました。地震の恐怖で怯え、餌を食べれなくなり、次第に衰弱していき亡くなったそうです。大きな揺れの恐怖で家から逃げ出し戻らないペットも多くいるようです。私が自宅に戻って一人片づけをしている早朝にも逃げたペットを探しているという人に何度も声をかけられました。

 

何かを失うという事。そこにある存在が無くなるという事。とても悲しい事です。

 

このblogを読んでいただいたみなさんにもう一度、その存在。いつもある存在に感謝して欲しいと思います。

 

 

最後に、熊本地震でなくなった多くのものに哀悼の意を示します。

                                                                                                                        orangelamp.