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風邪だと思ってたんですが💧 -悪性リンパ腫闘病記-

人生で初めての入院生活。自分、家族、仕事、人生とは⁉入院生活で感じた事や闘病記録、家族との過ごし方、趣味や特技の事を綴っていきます。

『感謝。』あなたが産んだから私がいる。

今日は『母の日』です。私の母は69歳と3ヶ月で私たちから旅立ちました。今回はそんな母に感謝を込めて書いていきます。

 

 

『あんまり言えなかった。お母さん、ありがとう。』

 

 

私が生まれたのは昭和40年代。今から40年以上前です。テレビもブラウン管カラーだったかどうかは覚えてません。家族は父と母と姉と私の4人家族。

 

母は専業主婦。たまにパートやってました。その後、父と自営業を営みます。

父は職人。姉は意地悪でした(笑)

姉が私に意地悪になったのは私が両親を独り占めにしたからだと思います。

もちろん、両親は姉の事も愛してたと思いますが理由はあります。

 

母は私が物心つくまでに沢山の悲しい思いをしてきたと思います。私が生まれる一年前に双子の女の子、つまり私の姉二人と産後1週間での相次ぐ死別。

 

そして、一年後に生まれた私は生後11か月で『特発性血小板減少性紫斑病』という病気にかかってしましました。どういう病気かと言いますと血液の病気で血小板という血液を固める成分が極端に減少してしまい体中に青あざが出来たり、もし出血を伴う怪我をしてしまうと血が止まらなったり、鼻血や酷い時は脳内出血などもしてしまう病気です。

 

特定の疾患として指定難病としても認定されてある病気です。

 

私自身には全くこの時の記憶がありませんが同じ親として、この時の両親の心境を考えると言葉が出ません。

発覚したのは夜中おしめの交換の時に私の大事な部分が異常に腫れて化膿していたとのことでした。急いでかかりつけの病院に駆け込んでも、ここでは出来ないと言われ

慌てて大きな総合病院で血液検査をした結果、出された検査結果がこれでした。

 

『今の症状が治ったとしても薬は一生手放せない。』と医師に言われたそうです。

 

だから、私の赤ちゃんの頃の写真の大半はベッドに両手、両足を包帯で括り付けられて抑制されている痛々しいものでした。母は病院で私に付きっきり。父も朝起きたら私の病院に毎朝駆け付けたと言います。まだ、すやすや寝てる姉を起こすのはかわいそうと隣のおばちゃんに姉の面倒を頼み毎朝通ったと聞きました。

 

3、4歳の姉は家で一人。朝、目を覚ますと家に誰もいなく毎朝泣いていたそうです。その泣き声に気付いた隣のおばちゃんが姉の面倒を見てくれるという毎日だったようです。

そりゃあ、私に意地悪になりますよね(;´Д`)かわいそすぎます。ごめんね、姉ちゃん。

この事が理解できたのもずっと、ずっと後です。

今ではお互いが一番の理解者だと思うくらい仲が良いですが。

 

この病気のせいで両親、特に母は常に私のことを心配してました。両親共働きになると、家の中では意地悪な姉と二人。いつも怪我だらけの私。

自分で怪我したものもありますが姉との喧嘩で付いた傷もいっぱいありました。

その度に姉は怒られたと思います。姉という理由だけで。

 

この難病自体は3歳ぐらいに完治して薬も飲まなくてよくなりました。この辺から私の記憶も残ってます。

 

母の印象を一言で言うと、、、。『大雑把。大胆。』かなぁ?!『手際が良い』とも言えますかね。

 

表現としては良い表現では無いですがその大雑把なやり方で何でもこなしてしまうので凄い人だと思います。料理も家事も仕事も段取り良くやってくれていたと思います。

今と違って、何でも揃ってない時代です。

 

夏の定番の麦茶も麦から煮出したり、そうめんのつゆも鰹節からとってた時代です。

この時代を生きた人ならこの、そうめんのつゆと麦茶を間違えて一気飲みした人も多いはず。私もその一人でしたから。

 

父の仕事が波に乗り、独立して従業員や一緒に暮らす親族も増えていきました。

一番多い時は10人家族。猫7匹犬11匹いました。もう、家の中も家の外も賑やかでしたよ。ご飯の時も戦争です。唐揚げも3kgとか揚げてたんじゃないですかね。もう笑ってしまいます。大皿にのせられた唐揚げの奪い合いです。その時の私の序列は年齢的に下から2番目。台の上の大皿にも立ち上がらないと手が届きません。箸の使い方もまだまだ人生の先輩たちには敵いっこありません。

 

でも母はそんな私を見かねてこっそり私のお皿に自分のお皿の唐揚げを分けてくれたり、おかずが魚の時は骨が嫌だった私の為にウインナーを一本だけ焼いてくれました。この一本のウインナーがどれだけ嬉しかったことか。

 

ご飯も1食で1升炊いても足りないって、、、。笑うしかないです。それを母一人で作っていたのですごいですよね。他にも私の体操服のゼッケン縫い付けてくれたり、雑巾を手で縫ってくれたり。

 

小学生の頃、母に『お母さんの趣味って何?!』って訊いたことありました。

運転していた母は私の顔を見ることもなく一言『そんな暇ない。』と言い放ちました。

趣味ないとか可哀想と思いましたが、今思うとそんな暇ねぇ~~~って感じですよね。

 

今の時代の人は、おそらく何かしないといけないとか自分の時間を持ちたいとかに必死になったりすると思うんですよ。私もそうですし。でも、母の時代はこれが普通というか家族の為に必死だったんですよね。学校で何があったの?!とか訊くんじゃなくて、とにかく頑張ってる親の背中を見せる。両親そんな感じでした。

 

当時の子供たちも、その背中や夜中トイレに起きてふすまの隙間から肩をトントン叩きながらはぁ~っとため息つきながら縫物などをしている母の姿を見たのは1度や2度ではないはずです。その度にお母さん、頑張ってくれてるなぁ。明日は早起きするぞぉ~って思いました。←起きれないんですが(笑)

 

子供の時、母が自分より先に寝て後に起きるなんて見たことありませんでした。

 

起きたら、朝ご飯出来ていましたし、学校から帰ると夏はスイカやメロンが切って冷蔵庫に入ってたり、牛乳寒天やフルーツ寒天が入ってたり。冬はストーブで焼かれた焼き芋があったり、ストーブの上でぜんざいが作ってあったり。

 

書いてて感心です。すごいです。母の凄さと自分の不甲斐なさで溜息が出ます。

 

今の時代は便利ですよ。物も買えるし、しかも、いつでも。体操服にゼッケン付けるのもアイロン。学校に持っていく雑巾も100円均一に行けば売ってます。

寒天よりも見た目綺麗なゼリーやアイスがいつでも売ってます。焼き芋や、ぜんざいだって電子レンジやお湯を注げばすぐに食べれます。

 

でも、母が作ってくれたそれとは違うんですよね。100円均一の雑巾なんて使ってみたけどすぐダメになります。私の母の雑巾はクラスで一番もちました。誇らしかったな~あの時の母の雑巾。

ゼッケンも剝げたことなんてないです。毎年、数字を強引に書き換えるだけで何年も使えました。

 

寒天やぜんざいも夏はクラーの無い部屋でも涼しくなり、冬はいつまでもポッカポカでした。

 

今の時代は便利になった分、ものへの愛情や愛情のあり方が変わってしまったなって思います。『物を大事にしない人は人も大事にしない。』私が幼い頃、おもちゃを壊したり、物を失くす度に言われました。ホントそうだなぁって思います。

 

そんな母が一度だけ、寝込んだことがありました。住宅関係の父の仕事で休みなく年末まで働き、年始になっても仕事が終わらずに父は仕事をしていました。

 

母は、私と姉を車に乗せて正月の挨拶に父の親の里の長崎県と大分県に連れて行ってくれました。毎年、お正月とお盆には行っていたので恒例行事なんですが、長崎と大分って九州の西端と東端なんですよね。その真ん中が私が住んでる熊本県。当時はどっちも高速道路なんてありません。片道3時間以上のロングドライブです。

 

年末までの疲れか母は明らかに疲れを見せました。それぞれのお爺ちゃんの家、お婆ちゃんの家に行けば気丈に振舞うのですが道中は度々、車を路肩に止め、私と姉で肩や腰を揉んでいました。そんな母が正月の挨拶も終え家に戻ったとたん倒れました。

 

母はそのまま3日間くらい寝込みました。『ごめんね。ごめんね。』っていいながら。

母の顔を見たくて日中行こうとすると姉から『今行くと起きるから行ったらだめよ!』

と何度も怒られたので夜中に会いに行ったり、濡れタオルをおでこにあてたり、氷枕を変えたりしました。どれもこれも人生初めての経験でした。氷枕のめんどくささと言ったらないですよ。

寝ている母を起こさないように濡れタオル絞るときに洗面器に落ちるしずくの音をたてないようにそぉーっと絞って、びちゃびちゃのまま、おでこに乗せて逆に起こしてしまったり、看病してるはずの私が寝てしまい母の布団を掛けられてたり、失敗の連続でした。

 

おかゆを作ったのも誰かの為に一生懸命料理を作ったのもこの時が初めてでした。

白ご飯を鍋に入れて、水入れて塩入れて。分量なんて適当です。美味しかったかも分かりません。でも、このおかゆを作った時に(おかあさんは、どれくらい入れてるんだろう?!)って興味を持ったのを覚えてます。ここも料理好きになった原点の一つですね。

 

寝ている母の傍におかゆを持っていき『おかゆ作ってきたよ!』とおそらく目をキラキラさせていたと思います。美味しかったかどうかは分かりませんが、

母は『ありがとう。本当に優しい子ね。』って頭を撫でてくれました。

 

この事は私が大人になっても笑いながら話してくれました。

『あの時は本当にありがとうね。』って。それが小学校3,4年位の時でしたから今から30年以上は前の話です。親も子供もそれが当たり前だったような気がします。

 

色んな家庭があったけど私の周りの親は誰もが一生懸命でした。子供も自分たちの事は出来るだけ自分たちでやっていたような気がします。小学校の時の先生にいつも言われていたことが

 

『〇〇は自分の事や叩かれて泣くことは無いけど、お父さんお母さんの話すると泣くよね。それだけ、お父さんお母さんが好きなんだね。』って言われました。成長過程でこんな家、親は嫌だ!!!って思ったこともありましたけど、この家でこの生活で幸せだったなと思います。

 

今は私も親です。子供には言葉で思いを伝えるのも必要だと思いますが、背中や態度で示すことも大切なことだなって思った『母の日』なりました。

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今は私が味を思い出しながら作る母の料理を私の子供が美味しいと言って食べてくれます。

まだまだ、母のそれとは違いますがいつかは父や姉にお母さんの茶碗蒸しだね!って言われるようになりたいですね。

 

 

『お母さん、私を生んで育ててくれてありがとう。私はあなたの子供で良かったと思います。これからもそれを誇りに生きていきます。ありがとうございます。』

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。感謝いたします。